0.2

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結局、男の話が終わった後、その場を離れる奴隷は一人もいなかった。 男はそれを見届けると、執事に何やら指示を出し屋敷の中へ入っていった。 それと入れ替わりに、控えていた他の執事やメイドが屋敷から出てくる。 執事が男からの指示を彼らに伝えると、そこからはあっという間だった。 まず、けがや病気を抱えている者は手当てを受けた。 私は手の傷を隠そうとしたが、それをメイドに目ざとく見つけられる。 痛いのを覚悟していたが、回復魔法に長けた者がいるらしく治療は一瞬で終わった。 その後は、浴場へ連れて行かれる。 そこでメイドにボロボロの服を脱がされると、頭からお湯をぶっかけられ、石鹸を使って体の隅から隅まで念入りに洗われた。 されるがままだが、溜まり溜まった汚れが落ちたのでスッキリした。 体を洗われた後には新しい衣服が用意されており、メイドに着せられる。 人間らしいまともな格好をしたのは本当に久しぶりだ。 それから、今度は机と椅子のたくさん並んだ広い部屋に案内された。 他の奴隷たちもすでに集まっているようで、皆小綺麗になって座っている。 私も椅子に座るようメイドに促された。 しばらく待っていると、私たちの前に食事が並べられる。 パンとそれから湯気の立つスープだ。 奴隷たちは手をつけようとせず、それを唖然として見つめている。 「遠慮することはありませんよ。この食事はご主人様が皆様のために用意して下さったものです。どうぞお召し上がり下さい」 執事の言葉に、奴隷たちは恐る恐る食事をし始めた。 私もパンを手に取り、ちぎって口に入れる。 「あ・・・」 その柔らかさに固まってしまった。 パンがこんなにもふわふわの食感であっていいのだろうか。 驚きながら、今度はスープを飲んでみる。 温かい、しかもちゃんと味があることに目を見開く。 野菜や肉のうまみがしっかりスープに出ている。 これほどおいしいスープは食べたことがない。 無我夢中になって食べていると、スープに1滴の雫が落ちる。 それが何の雫か初めは分からなかった。 考えている間にまた1滴2滴と続く。 ふと、スープに映った自分の顔を見て気がついた。 私は泣いているのだ。 それもそうだろう。 今までの辛い人生からすれば、この瞬間は幸せとしか言い表せない。 意識はしていなかったが、体が勝手に反応したようだ。 いくら拭っても、涙が次から次へとこぼれ落ちていく。 それを見たメイドは気を利かせて、ハンカチを差し出してくれた。 遠慮することなくそのハンカチを受け取り、涙を拭く。 そして、残りの食事を一口一口噛みしめて食べた。 「皆様、食事はいかがでしたか?ご満足いただけましたでしょうか?」 全員が食べ終わった頃、執事が口を開いた。 言うまでもなく、奴隷たちの顔は皆幸せに満ちあふれている。 「この後の予定ですが、私に代わって説明していただきます。アルベルト、お願いします」 「ありがとう、シュレーゲル」 壁際に座っていた男がゆっくりと立ち上がる。 この男も執事たちとはまた違うが、身なりは整えられ、所作も丁寧だ。 ただ、怪我を抱えているのか、右腕の動きが少しぎこちないように感じられる。 「とりあえず、まず一言。ようこそ、我が主のもとへ。ここに来ることができたということは、君たちは非常に幸運だったと言えるでしょう。さて、申し遅れました。私、ご主人様の秘書を務めております、アルベルトと申します。以後、お見知りおきを」 秘書は胸に手を当て、礼をする。 この男、人の良さそうな笑顔を見せているが、掴み所がない、得体の知れない雰囲気を醸し出していた。 「皆さんにはこれから、ご主人様と一対一の面談をしていただきます。くれぐれも失礼のないようにだけ、お願いしておきます」 一対一の面談と聞いて、奴隷たちに動揺が広がる。 主人との一対一になることなど、躾と名のついた暴力を振るわれる以外の何ものでもなかったのだ。 皆口々に不安の声を漏らし、中には恐怖心に駆られ頭を抱え込む者もいた。 「では、早速参りましょう。遅れないよう、しっかりついてきて下さいね」 秘書はにこやかにそう言うと、さっさと足を運び始めた。 奴隷たちは仕方なく、その後に続いていく。 食堂を出て、しばらく歩くと円形の模様が描かれた床があり、その上に乗るように指示された。 奴隷たちはそっと足を乗せたりしているが、特に何も起こる様子がない。 見上げると吹き抜けになっているようで、最上階の天井がぼんやりと見えた。 秘書は全員が乗ったことを確認すると、何かの操作をするように手を軽く動かす。 すると、床が浮き上がり、上へ向かって登り始めた。 奴隷たちは驚きのあまり叫び声を上げたりするが、秘書は冷静そのものだ。 登る床は最上階と思われる階で、静かに停止した。 秘書はまた歩き出し、あっけにとられていた奴隷たちも慌ててついていく。 長い廊下を進み、突き当たりの扉の前で秘書は足を止めた。 「皆さん、この扉の先にご主人様がいらっしゃいます。1人ずつ案内するので、お静かにお願いしますね」 そう言って、秘書は扉をノックし、1人先に中へ入る。 奴隷たちをつれてきたという報告でもしているのだろう。 すぐに扉が開く音がし、秘書が出てくる。 「それでは準備が整いましたので、面談を始めます。まず、そこのあなたから」 秘書は一番近くにいた者を指差し、部屋に入るよう促す。 秘書に扉を開けられ、彼は恐々と中へ足を踏み入れた。 奴隷たちは待つ間、誰もが不安げな表情を隠していなかった。 当然だ。 これから何が起こるのか想像がつかないのだから。 悲痛の声でも聞こえてくるのではないかと、皆息を殺して扉を見つめている。 だが、1人目が部屋から出てくるのに、そう時間はかからなかった。 その顔は拍子抜けしたといった感じだ。 彼は息つく暇もなく執事に別の場所へと案内されていく。 その後は皆、同じような調子だ。 誰もが困惑した表情で部屋から出てくる。 部屋の中でいったい何が行われているのだろうか。 そうする内に私の番が回ってきた。 扉の前に立つと、緊張しているのか胸の鼓動が高鳴る。 気持ちを静め、覚悟を決めて部屋へと入った。 中は上品な装飾を施した落ち着きのある部屋で、中央にぽつんと椅子が置いてあった。 「そこに座って」 奥の机からの声に目を向けると、主人と思われる人物が座っていた。 ただ、先程とは違いフードをかぶっていないため、男の顔がはっきり見える。 想像とは違い中性的な顔立ちのせいか、あまり怖さは感じなかった。 「じゃあ、君の名前を教えてくれ」 椅子に座ると間髪入れず、質問が飛んできた。 「リリー・ラッツェル…です」 「ラッツェルね…」 男は紙にペンを走らせ、ときどき独り言を呟く。 そして、私の顔を見ては、また紙に書き込むということを繰り返していた。 「…よし、こんなもんか。オーケー、ありがとう。部屋から出てくれ」 名前を聞いただけで、男は面談を終わらせた。 部屋から出ると他と同じようにメイドに連れて行かれる。 なるほど、確かにこれは皆が不可解に思うはずだ。 行きと同じように上下する床に乗りまた食堂に案内されると、そこで待機の指示をされる。 しばらく待っていると、全員の面談が終わったようで秘書も食堂に戻ってきた。 「面談お疲れ様でした。今後の予定としては、まず皆さんがここで暮らしていけるようみっちりと教育をさせてもらいます。そして、教育が済めば、適性を見て各部署に配属していくので、しっかりついてきて下さいね」 語気を強めに秘書が話す。 その時の秘書の笑顔が忘れられそうになかった。 「アルベルトさん、この書類はどうしたらいいですか?」 「ああ、それはそこの棚に片付けてください」 数ヶ月後、私はアルベルトさんの部下として働くようになった。 秘書という仕事は思っていた以上に忙しく、覚えることもかなり多い。 この作業量をアルベルトさん1人でこなしていたとは信じられない。 だが、大変である一方、奴隷であったときには信じられない程の充実感を得ていた。 すると突然、扉が開き、主人である男が入ってくる。 「アルベルト、街道整備の資料はできているか?」 「はい、こちらに」 「ありがとう。いつも助かる。ラッツェルもよろしく頼むぞ」 「は、はい!」 男は資料を受け取ると、慌ただしく部屋を出て行った。 その男の後ろ姿を目で追い、ふと思ったことを口にする。 「…ご主人様は変わっていらっしゃいますね」 「ラッツェル、今なんと言いましたか?」 アルベルトさんの目が見開かれ、私に向けられた。 私はまずいことを言ってしまったかと口を押さえる。 だが、アルベルトさんはため息をつくと、やり終えた書類を揃えながら口を開いた。 「確かに、一見ご主人様は変わり者に思われるでしょう。ですが、よく頭に入れておいて下さい。ご主人様はこの世でたった13人しかいないS級冒険者の1人…【万能(オールラウンダー)】、その人です」
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