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本物の木漏れ日は、波が作るそれよりもいくらか柔らかかった。
海岸から少し離れた林道を歩く二人は、ペットボトルのスポーツドリンクとウーロン茶を交互に口に含んだ。
「日焼け止め、べったべたに塗ってきてよかった。顔がろうそくみたいになってるけど」
女はサングラスをかけ、つばの広い水色の帽子をかぶっている。上半身は水着のままだが、下はスカートをはいていた。
「あの、お姉さん」
「私は、T田K菜といいます。偽名だけど」
「ティーダ・ケーナさんていう外国人みたいになってますが。俺は、唐沢徹です」
「本名じゃん。見ず知らずの私にいいの? 徹くん」
意外になれなれしいな、と徹は思ったが。
「別に隠すような、大層な立場じゃないので。待ち合わせ場所ってどこなんです? この町の中なら、案内できますけど」
「待ち合わせは、してない」
「え?」
「だから会えなければそれでいいよ。それにしてもあっついね。かき氷とか、この辺に売ってない?」
徹は嘆息して、
「この先に売店があります」
「お腹が冷えた」
「三杯も食べるからですよ」
「悪いね、おごってもらっちゃって。見ず知らずなのに。私、お金持ってないわけじゃないんだよ」
「そうでしょうね。三杯も食べると知ってたら割り勘にしましたよ」
二人は、もと来た道を歩いていた。
夕方を迎え始め、さすがに太陽の光も弱まりつつある。
再び砂浜に出た。人出が減っている。
「ごめんね。あの岩場で、一人でいたかった?」
「何を謝ってるんです?」
「実は私、君のこと知ってるんだ」
「……光栄です」
一ヶ月前、徹の名前が全国ネットのニュースに流れた時は、自分でも不思議な感覚だった。今までにも注目され、取り上げられることはあったが、それとは規模が違った。
「もう野球はやらないの?」
「やらないんじゃなく、できないんです。第一線の野球は」
肘に抱えた爆弾が爆発した時、一瞬で、頭の中を膨大な量の後悔が弾けた。いつかはこうなるかもしれないと思いながら、きっと自分は大丈夫だろうと信じてもいた。
何度も投げるなと言った監督。休めと言ってくれたチームメイト。野球だけが人生じゃないと慰めてくれた家族。もう、誰にも合わせる顔がなかった。
徹は、それでも徹が甲子園で戦うことに夢を見る人々の、弱みに付け込んだのだ。どうしても投げたいと言って暴走し、結果、その全員を傷つけた。
「野球あまり知らない私でも毎日ニュースでみたもん。徹くん、凄いんだね」
「凄かったんです。ひと月前までは」
口に出してから、「今の言い方は棘がありました」と謝ったが、当のK菜は海を見ながらただ微笑んでいる。
「人が皆帰っていくね」
「海は、早く切り上げるに限りますから」
「ね、あれできる? 水面に石とかをピッピッてやるやつ」
「水切りですか? それくらいできますけど、海にものなんか投げ込みませんよ」
「私も不法投棄は嫌い。じゃ、これならいいでしょ?」
K菜はパーカーのポケットから薄い財布を取り出し、中から小さな青いかけらをつまみ上げた。
角がすっかり取れて丸みを帯びた、海色の小石だった。
「シーグラスですか」
「今朝ここで拾ったの。それを海に返すだけなら、どう?」
徹はそれを受け取ると、海に向かった。
当然、野球のボールとは比べ物にならないほど小さく、軽い。申し訳程度のテイク・バックから、徹は横投げにシーグラスを放った。
シーグラスは水面を渡るどころか、一度目の着水で波間に消えた。
「……スローイングは、久しぶりです」
「肘、痛くない?」
「このくらいなら平気ですよ。ものを投げるのを、止められ続ける一ヶ月間でしたから」
すっかり癖になっている投球動作を家の中でもついしてしまう度、家族の顔が凍りつくのを見るのは、想像以上に辛かった。
「何かを投げたいんじゃないかって思ったんだ。無神経かなとも思ったんだけど」
「分かりますよ。適当にじゃなくて、考えた末にそう言ってくれたんだってことが」
「嘘。私の経験からみて、一般人の高校生男子に、そんな洞察力があるとは思えない」
「だってK菜さん、さっきから凄く心配そうな顔してますから。泣き出すんじゃないかってくらい」
K菜はうっとうめいて赤面し、左手の細い指の先で頭をかいた。
「日が暮れるね」
「ええ。……これ以上は危ないです」
徹は、K菜を、泊っているというホテルの近くまで送った。
二人は、それで別れた。
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