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徹は、ラムネの瓶をプールサイドに置こうとしてやめ、片手が瓶で塞がったままにした。
「全くないわけではないと思うんですが。実行に移すことはまずないと思います」
「ほお。ま、ほんとにそんな感じだから訊いたんだけどさ。だからこそ、私はここにいるんだけど。あんまり私には興味湧かないか」
「だってK菜さん、俺を元気づけようとしてくれてるんですよね。だったら、俺がしていいことと悪いことがありますよ」
K菜は、瓶を両手で持って、プールの先の方を向き、徹から視線を外した。
「見え透いてたか」
そう言うK菜の唇の動きが、徹には眩しい。
「それは、ずっと俺のことばかり考えてくれてますから。優しいですよね」
「現実逃避かもしれない」
「違いますよ」
断言されて、K菜が笑う。そしてバッグの中から、薄い緑色のシーグラスを一粒つまんで、空のプールに投げた。
「この子たちは、元は何だったんだろう。やっぱり酒瓶かな。もし元々高いものだったとしても、何かにぶつかって削れて、さらさら流れて、今ではもう原形もない別物、か」
「でも、きれいだと思います」
K菜の横顔を見ていると、シーグラスがではないですよ、と徹は言いたくなった。
平静を装いながら、心の中では動揺していた。
太陽が高いうちは、野球が失われた辛さが勝っているからいい。だが陽が落ちて暗くなったら、徹は自分でも知らないうちに胸の中に抱いてしまったK菜への想いを、隠し通せる自信がなかった。
――そんな気を起こすな。肘を壊した絶望で、弱気になっているところに、こんな人が励ましてくれたので、のぼせているだけだろう。
K菜が髪を指ですいた。
左の薬指に、大粒の輝く石が載った、金色の輪が光っていた。
――待ち人が来ない? この人の?
夢を追う彼女の、負担になりたくないということだろうか。その夢と秤にかけられるほどに、想われているというのに。
徹の胸に、噴き出すような怒りが湧いた。
K菜が、小首をかしげて、歯を食いしばった徹の顔を覗き込む。
それだけで、憤りも、喪失感も、全ての負の感情が溶けて消えていくようだった。
徹は、説明のつかない感情であふれそうな涙をこらえながら、応えるように笑った。
夕暮れを迎える前に、徹は家のドアをくぐった。
夜が近づくと、K菜にすがりついてしまいそうで怖かった。
夕方のニュースがテレビから流れている。似たような社会問題。似たような芸能ゴシップ。徹を悲劇の主人公として盛り上げるニュースなど、もうどこもやっていない。
普段と変わらない様子で、徹は母と妹と夕食をとった。
■
翌朝、徹は海へ出た。岩場を巡り、昨日のプールを訪れた。
適当に水分と軽食をとりながら、その二ヶ所を往復する。
しかし、K菜の姿はなかった。彼女の泊まっているホテルの目星はついていたが、探すつもりはなかった。
昨日の徹の様子から、なんとなく気の合いそうな旅先の知己が、男に変わりそうな気配を感じ取ったのかもしれない。そうなることは、徹も不本意だった。だから、これでいい。
三度目にプールへ訪れると、涙腺に限界が来た。
徹はプールサイドに膝をつき、胸を抑える。
野球を失った。いつからかぼんやりと、けれど確かに追い続けていた夢を失くした。
その辛さを一時埋めてくれた人がいた。けれど、その人も去った。
こんな気持ちに耐えなくてはならないのか。なんのために。誰のために。
噛み締めた歯の脇を、一ヶ月間こらえ続けた涙が、とめどなく流れ落ちた。
胸の中で、全てをかけて打ち込んできた野球の日々と、その狭間でこの二日間の思い出が、無数に弾けていた。
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