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第11話
「み、ずしなさん?」
意外な場所で意外な顔を見て、目を丸くする花菜実。
「用事でこの駅まで来ていたから、食事でもどうかと電話するところだったんだ」
幸希がニッコリと笑い、携帯電話をスーツのポケットにしまう。それから花菜実の手を取り、さりげなく曜一朗から離すと自分の元に引き寄せた。気がつくと、恋人つなぎをされていて。
「え、あの」
今までこんなことをされたことなどなかったので、ドキリとした。
「あぁ……この方なんですね、花菜実先生」
全てを察したように、曜一朗がうなずきながら言う。
「あ、いえ、この人は、その……依里佳さんの、彼氏の、お兄さん、です」
何と説明したらいいのか分からず、とりあえず依里佳の名前を出してしまった。まずいとは思ったが、他に言い方が浮かばないので仕方がない。
「花菜実、紹介が回りくどいな。『彼氏』の一言で済むだろう?」
笑いながら幸希が訂正を入れる。表情こそ笑顔だが、どうやら若干苛立っているようだ。彼のこのような態度は初めてで、花菜実は戸惑ってしまう。
「あぁ、もしかして、先月の運動会にいらしていた、翔くんのご家族御一行のお一人でしょうか? うちの職員がずいぶんと騒いでいましたが」
「えぇ、そうです。……失礼ですが、あなたは?」
曜一朗が普段と変わらない優雅な態度で対応しているのが、幸希を余計に刺激するのか、さらに苛立ちを増した口調になっている。
二人の対象的な様子に、何故か花菜実がハラハラし始める。
「私は織田さんの上司、といったところでしょうか」
「副園長先生です」と、花菜実が横から小声でフォローを入れる。
「そうですか。花菜実がいつもお世話になっております。……では、失礼」
鋭い視線でもって会釈をし、花菜実の手を引き、駅の反対側へと早足で歩き出す幸希。
「あっ、副園長先生、失礼します……!」
花菜実はあたふたしながら曜一朗に向かって挨拶をしたが、ちゃんと彼に聞こえていただろうか。
引っ張られながら幸希の歩みについて行くのに精一杯で。声を上げることも出来ない。
商店街を抜け幹線道路まで出ると、幸希はようやく彼女の手を離した。やっと立ち止まれた花菜実は、眉尻を上げて幸希に抗議する。
「ちょっと、水科さん! もう、完全に副園長先生に誤解されたじゃないですか!」
「誤解されたら困る相手なのか?」
訝しげにそう問われ、花菜実は張り合うように目を細めた。
「そうじゃないですけど、すっかり彼氏だと思ってますよ。あの様子だと」
「それでいい。それが目的だから」
信号が青に変わり、幸希が歩き始める。どうやら道路に向こう側にあるタクシー乗り場に向かっているようだ。仕方がないので花菜実も後に続く。
「よくないです!」
曜一朗のことは信用しているが、もし万が一幼稚園で噂でも立とうものなら、他の職員に何を言われるか分かったものではない。
花菜実にとっては、それが一番嫌だった。
「花菜実は……あの男が好き……なのか?」
「……え?」
少し拗ねたような口調で、思いがけないことを尋ねる幸希。
「あれだけの男前と毎日一緒にいるんだ、好きになっても仕方がないと思う。でも――」
「ちょ、ちょっと待ってください! どうしてそういう話になるんですか!?」
花菜実が大きく目を剥いた。今日一番の驚きを表している表情だ。
「さっきあの男と一緒にいた花菜実が、その……顔を赤くしていたから」
「ち、違いますよ! あれは、水科さんのせいで……っ」
「……僕のせい?」
花菜実の反論に、幸希はきょとんとする。彼女は自分を落ち着かせるために、大きく深呼吸し、そして切り出した。
「前に水科さんが園まで私を迎えに来たところを、園長先生に見られてて。それを副園長先生にからかわれただけです。……それに副園長先生には好きな人がいて、私はずっとそれを応援してきたんですから」
その相手が依里佳であること、そして花菜実の応援は無駄になってしまったことは――口にするべきではないので、それ以上は言わなかったけれど。
「――とにかく、私は副園長先生のことは何とも思っていません。上司としては尊敬してますけど。……って、どうして私がこんな言い訳めいたことを話さなきゃならないんですか。もう、意味分かんない!」
呆れ果てる花菜実に、今度は幸希が大きく息を吐いた。
「ごめん……花菜実とあの男が二人でいるのを見て、焦ったんだ……」
「焦った? ……どうして?」
幸希は躊躇うことなく、
「……はっきり言えば、嫉妬した」
きっぱりと、それでいてバツが悪そうに吐き出した。その頬が、どことなく染まっているように見えるのは……気のせいだろうか。
花菜実は目をぱちぱちと瞬かせ、そしてクスクスと笑いだした。
「……花菜実?」
「水科さんも、そういう風に焦ったり拗ねたりすることがあるんですね。ごめんなさい……笑っちゃいました。いつでも余裕があって動じない人だと思ってたんで」
出逢った日からその言動で花菜実を翻弄してきた幸希。落ち着いていて、地に足のついた大人な彼にも、こんな一面があるなんて。
「彼氏じゃないのだから嫉妬するなんておかしい」だとか、本当はもっと言わなきゃいけないことがあるはずなのに、そんなことどうでもよくなるくらい、今の幸希は可愛らしくて。
今まで確実に存在していて、数週間前までは縮まることなど絶対にないと思っていた彼との距離が――また少し、近くなったような気がした。
その刹那、二人を包む空気が一変する。目の前の道路では相変わらず多くの車が音を立てているし、歩道には人々が行き交っている。目に映る景色はまったく変わっていない。
けれど花菜実と幸希の周りだけが、別な空気の膜で包まれているような気分になった。
「……花菜実と一緒にいて余裕があったことなんて、一度もない」
幸希は波静かな水面のように穏やかに花菜実を見つめたまま、言葉を紡いだ。
「え?」
「余裕があったら、毎日メッセージなんてしないし、毎週毎週どこかへ誘ったり、強引に幼稚園に迎えに行ったりなんてしないよ」
日頃から自分の感情や言動を、完璧に制御していると思しき幸希。彼女への今までの行動すら計算ずくだと思っていたけれど、本当はそうではなかったのだろうか。
「……」
花菜実は何と答えたらいいのか、分からなかった。
「花菜実に関しては、僕はいつも必死なんだよ」
そう言って、今まで見たこともないような、儚げな表情を見せるから。
「……そんな風には、見えないです」
かろうじて、そう返すのが精一杯だった。
「それじゃあ、何とか余裕があるように見せられてる、ってことだな。よかった」
幸希は安堵の笑みを見せたが、花菜実の心はわずかに揺れたままだった。
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