4726人が本棚に入れています
本棚に追加
/53ページ
第13話
「わぁ……きれいなトンネル……」
いよいよ目玉のホッキョクグマゾーンへ来ると、人混みは最高潮となった。何分、水族館並みの水のトンネルがあり、その上をクマが優雅に泳ぐのが見える。時にはそこに四足で立つ姿さえ見られるのだ。トンネルへと続く屋内の通路からして渋滞しているくらいだ。でもそのおかげで、通路の壁に埋め込まれたネームプレートをゆっくり検分することが出来た。
トンネルの中はやはり人で溢れていて、進むことさえままならない。ホッキョクグマが泳いでそこを通るたびに、わぁ、という歓声がそこここから上がる。
「シロクマって、大きいですよねぇ」
思いの外大きい体躯を間近で見て、花菜実は感心しきりだ。
「シロクマは陸上の肉食動物で、一番大きいと言われているからな」
「へぇ~、そうなんですか」
上からの日の光が水を通してトンネルの中を水色に照らす。うっすらと色づいた白い地面には水影が揺らめき、辺りは神秘的に見える。
キラキラしたトンネルを見ているだけでも癒されるし、その澄んだ景色と空気に浸っていたくなってしまう。
「海外だと、こういう動物園の水中トンネルで結婚式を挙げるカップルがいるらしい」
「へぇ……それは……何だか楽しそう……ですね」
泳ぐクマを目で追いながら、上の空な様子で相槌を打つ花菜実。幸希がそんな彼女を楽しそうに見つめているなんて、気づいてもいない。
「……花菜実もそういう結婚式がしたい?」
「んー……私は……普通でいいです。……っていうか……普通“が”いいなぁ……あ、二頭いっぺんに来たぁ! すごい!」
花菜実は首が折れそうなほどに空を見上げ、トンネルの上を歩くように泳ぐ二頭のホッキョクグマに見入っていた。
他の客からもさらに大きな歓声が起こる。そんな喧騒の中なので、
「……やっぱり普通がいいのか」
落としたトーンで、それでいて嬉しさを滲ませながら紡がれた幸希の言葉など、ほとんど耳に届きもせず。
「……ん? 今、何か言いました?」
首を傾げる花菜実。クマの姿を追うことに夢中になっていたので、
「花菜実、今、何の話をしていたか覚えてる?」
そう問われて、
「? ……ごめんなさい、何となく受け答えした覚えはあるんですけど、正直、何の話だったか……覚えてないです」
申し訳なさげに眉尻を下げた。幸希は堪えられずに吹き出すと、
「花菜実はシロクマに夢中だったものな。目がキラキラしてたし、可愛かった」
彼女の頭を少し乱暴に撫でた。
「あの、話を聞いてなかったのは申し訳ないと思いますが、そうやってすぐ子供扱いするのやめてください。私、もう二十四ですよ?」
「あははは、そっか」
「人の話、聞いてます?」
「聞いてる聞いてる。僕は二十七だ」
「もう、絶対聞いてないんだから」
花菜実は頬を膨らませて、ようやくスムーズになった人の流れに乗って出口に向かい、そのすぐ後を、幸希は大きなストライドでついて行った。
「……あ、ありましたよ、水科さん!」
ホッキョクグマのトンネルを出るとすぐにタイルの壁がある。そこにはスポンサー名が刻まれたプレートがところどころはめ込まれていたのだが、その上の方に『KOKI MIZUSHINA』と彫られたアクリルのプレートがあるのが見えた。
「あぁ、意外と目立つところにあったな」
「ほら、やっぱりシロクマのところでしたね」
せっかくだから写真撮っておきましょう――そう言って花菜実はスマートフォンでプレートの写真を撮る。すると幸希が花菜実の手からそれを取り上げ、
「花菜実、こっち」
と、彼女の肩を抱き寄せ、二人とプレートをディスプレイに上手く収め、シャッターボタンを押した。そして手際よく操作をし、メッセージアプリを介してそれを自分の携帯電話に送信した。
「早……」
「うん、可愛く写ってる、花菜実」
幸希は自分で撮った写真を見て、満足げにうなずくと、スマートフォンを花菜実に返した。あっという間の出来事に、花菜実はまともに言葉を返すことも出来ずに、幸希に促されるままそれをしまった。
ホッキョクグマのエリアを出て少し歩くと、大きな池がある。そこには鯉がいたり、マガモが泳いでいたりする。その池を臨むように二人がけのベンチが置いてあり、たまたま空いていたので、二人はそこで休憩することにした。
緩やかに吹く風が、心地よくふたりを掠めていく。
カモの繁殖期は終わっているので小さな雛はもういなかったが、今年の春に雛が生まれた時の写真が看板に掲げてあった。それを見て、幸希がフッと笑う。
「ん? どうしました?」
「いや、あのカモの写真、運動会で園児たちを先導していた花菜実みたいだなぁ、と思ったんだ」
写真では、沢山の仔ガモが親ガモの後を懸命にチョコチョコと歩いている様が切り取られていた。可愛らしく、そして微笑ましい光景だ。
「水科さんって時々、喜んでいいのか悪いのか分からない、微妙なコメントをしますよね」
花菜実は腑に落ちない、という表情で尋ねるが、幸希はニコニコと笑みを湛えたままだ。
「あの時の花菜実、すごく可愛かったな。一生懸命で、どちらが園児か分からないくらい無邪気に見えた」
「……それって、絶対、褒めてないですよね?」
「褒めてるよ」
当然、と言いたげに、幸希が笑った。
「……じゃあ、素直にそう受け取っておきます」
花菜実は照れを隠すように、ボソリと言い捨てた。
「花菜実と一緒にいると楽しくて、時間を忘れるよ」
その言葉に、弾かれたように顔を上げると、幸希が甘く解けた瞳で花菜実を見つめていた。その表情を見ていたら、自分も素直に思ったことを言わなきゃいけないと思って。
「……私も、今日すっごく楽しいです」
ニコッ、と音がしそうなくらいの満面の笑みで、花菜実が答えた。幸希は眩しそうに目を細め、彼女の髪に触れた後、頬を撫でた。
一瞬、風が止んで。二人の周縁を静寂が支配する。
「花菜実……」
幸希は吐息混じりに名前を呟き、彼女を見つめたまま、顔を近づけた。
(あ……)
彼のくちびるが、確実に花菜実のそれを捉えにかかって。
喉が詰まって言葉が出ないまま、目の前がフッと暗くなった――
最初のコメントを投稿しよう!