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第19話
近くでタクシーを拾った幸希は、後部座席に花菜実を押し込んだ後、自分も隣に乗り込み、運転手に行き先を告げた。そして心許なさげな花菜実の手をぎゅっと握る。
花菜実は既に泣き止んでいたが、ずっと黙っていた。幸希は彼女の手を離すことなく、スマートフォンでどこかに電話をしている。
彼の手の温もりが安心感を与えてくれているようで、花菜実の心は徐々に落ち着きを取り戻していた。
タクシーは南へ向かい、そして桜浜市を抜けた。何度かの渋滞を経て、海岸沿いの道路を走った後、とある店へ一旦停まった。
「花菜実はここで待ってて」
タクシーごと花菜実を待たせたまま、幸希は店の中へ入って行った。おしゃれな店構えで、どうやらイートインも出来るデリのようだった。しばらくして幸希が大きな紙袋を手に車内に戻って来て、再び運転手に指示をして車を走らせた。
海沿いの道をさらに行った後、今度は車は脇道を入り、高台の方へと上っていく。しばらく走り、民家がほとんどなくなった頃、タクシーは停まった。
「花菜実、着いたから」
幸希はタクシーの支払いを済ませた後、花菜実の手を取り、敷地の奥へと続く石畳のアプローチを歩いて行った。
ほとんど真っ暗で外観ははっきりとは見えなかったが、少し古い洋館のようだ。重厚な焦げ茶の玄関扉には真鍮で出来たドアノッカーが取りつけてある。
「ここは……」
「うちの別荘」
幸希が屋敷の扉を解錠しながら答えた。大きな扉を開くと、人感センサーがついているのかすぐに電気がついた。広々とした玄関ホールが目の前に現れた。そこここに高級そうな調度品が置かれている。
「わ……」
すごい――思わず口走る。テレビドラマか映画のセットのような趣きある内装が、花菜実にとっては非現実的すぎて、身体が浮いてしまいそうな感覚に陥る。
「そんなに頻繁には来ないけれど、いつ来てもいいように十日に一度は掃除に入ってもらっているから、そう汚れてはいないはずだ。それに生活用品も一通り揃っている」
「はぁ……」
「花菜実、腹は減ってる? 夕飯はどうする? 一応適当に見繕って買っては来たが」
幸希が先ほどのデリから持ち帰った紙袋を上に掲げる。
「わ、たし……お腹が空いて、なくて……」
そう言ってはみたが、実際には先ほどのショックがまだ尾を引いているので、食べ物を口にする気が起こらない、というのが本当のところだ。おそらく幸希もそれは分かっているだろう。けれど彼はあえてそこには触れず、
「そうか、じゃあ後でもいいか。食べたくなったらレンジで温めよう」
そう告げ、家の奥へと歩いて行く。花菜実も後について行くと、彼はキッチンと思しき室内に入り、真ん中にあるステンレス製のアイランドへ紙袋を置いた。
そして袋の中からスチロール製の蓋つき耐熱カップ二つだけを取り出し、一つを花菜実に差し出した。
「スープくらいならいけるだろう? 外は寒いから、持っていた方がいい」
「そ、と?」
花菜実が首を傾げると、幸希は薄く笑い。ついて来い、とばかりにキッチンを出た。廊下を進み、裏庭へと続くドアまで来ると、その脇にあるクローゼットから大きな毛布を取り出した。それを小脇に抱えた幸希は扉を開き、花菜実を促して外へ出る。
そこはまるで植物園のようだった。
一見、自然のままかと見紛うほど木々が豊かで。多くは葉が落ちていたり紅葉していたりするが、低木や高木がきれいに剪定されていて、煉瓦や石で花壇も作られている。季節が季節なので花は咲いてはいなかったけれど、春には見事な景色を見せてくれるのだろうなと、容易に想像が出来た。
その中を少し歩くと、急に視界が開けた。どうやらここは半島の先の方らしく、高台になっている敷地からは、空と海と、そして桜浜の夜景が一望出来た。
空には数え切れないほどの星が瞬き、凪いだ海は月の光を受けてキラキラと輝いている。そして遠くに見える桜浜の夜景は、宝石箱をひっくり返したように様々な色の光を放っていた。
「わぁ……きれい……」
その美しさに、思わずため息が溢れる。泣いたばかりの目には眩しすぎるきれいな光景だ。
「花菜実」
すぐ後ろから声をかけられ振り返ると、そこには青銅のベンチがあり、幸希が毛布を広げて座っていた。
「おいで」
彼は自分の左側のスペースを手の平で叩き、花菜実を呼び寄せた。言われるままに近づき、そこに腰を下ろすと、ふわりと毛布をかけられた。二人で一つの毛布に一緒に包まれる。
ベンチのアームレストにはカップホルダーがあり、花菜実はひとまずそこにスープを置いた。
「暖かいですね」
毛足が長くて手触りが気持ちいい。きっとすごく質のいい毛布なんだろうな、と、花菜実は表面を撫でながら思った。
「真冬になると空気が澄んで、星がもっときれいに見えるんだ。僕は一人になりたくなると、いつもここに来るんだ。余計な音に煩わされることもないし、真っ暗な中で何も考えずに景色を見ていると、嫌なことを忘れられる」
遠くの方へ目線を送ったまま、幸希が呟くように言った。
「そう、ですか……」
「――ここに他人を連れて来たのは、花菜実が初めてだ」
「へぇ……?」
花菜実が疑わしげに幸希を見る。その目は「いつもきれいな女の人を連れて来ていたんじゃないんですか?」とでも言いたげだ。
幸希は苦笑う。
「誓って本当だから――そもそも、この僕が、ストーカーまがいなことをしてまで追いかけている女性なんて、二十七年生きてきて、君以外にいない」
「……確かに、最初はちょっとストーカーみたいだな、って思ってました」
花菜実が泣きすぎて腫れた目を細めて笑う。
「僕が花菜実に、翔くんのプレゼントを選んでほしいと頼んだ日のこと、覚えてる?」
「……はい」
「花菜実は、たまたま自分が翔くんの担任だったから、プレゼントを買うために白羽の矢を立てられたんだと思ってただろう? ……だけどそれは違う。逆なんだ」
「逆?」
「前の週、花菜実に好きだと告白をしたけれど、あっさりとスルーされて。どうしたらいいかと考えていた時にちょうど耳にしたのが、翔くんの誕生日だったんだ。花菜実に会いに行くために、あの子の誕生日をダシにした。そうでなきゃ『弟の彼女の甥』なんていうほぼ赤の他人に、誕生日プレゼントを買う理由などあるはずないじゃないか。……まぁ、翔くんが思いの外喜んでくれたから、それはそれでよかったが」
幸希がクスクスと笑う。
「誕生日に翔くんの写真を撮ったのだって、花菜実に連絡する口実が欲しかっただけだ」
暗闇の中に、二人の吐く息が白い綿のように浮き上がり、そして消える。それを見ながら、花菜実は頭に浮かんだ疑問を口端に乗せた。
「あの……水科さんは、どうして私のことを……その……」
「……好きになったか?」
ズバリ尋ねることが出来ずにもじもじしていると、幸希はすぐに察して言葉を継いでくれた。花菜実はこくこくと何度もとうなずく。
「信じてもらえるか分からないけど……ざっくり言えば一目惚れ、みたいなものだ」
「はい?」
花菜実は幸希の顔を驚きの表情で見つめ、目を瞬かせた。まさか自分が他人から一目惚れされるだなんて、思ってもみなかったからだ。
しかも相手は、どれだけのものを望んでも『高望み』なとどいう言葉は辞書には載っていない男性で。おそらく会社では王子様扱いされていて、ハイクラスな女性が選り取りみどりのこの人が、こんな普通の女の子に一目惚れだなんて――これは一体、何の冗談なのだろう。
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