第20話

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第20話

 けれど幸希はきわめて真面目に、躊躇うことなくそうだと断言した後、 「今度、僕が花菜実に一目惚れした場所に一緒に行こう。その時まで、それがどこかは秘密にしておくよ」  悪戯っ子のように笑って。毛布の中で、花菜実の頭を自分の胸に閉じ込めるように抱きしめた。 「――僕の鼓動が速まっているのが分かる? ……花菜実とこうして一緒にいるから。君といる時はいつもこうなんだ」 「……あ、の……、私も、今すごく……ドキドキして、ます」  父や尚弥以外の男の人に、こんな風に抱きしめられたことなんてなかったから。心臓が忙しなく動いてしまう。きっと幸希にも伝わってしまっているだろう。 「――さっき桜浜の公園で、花菜実は『あなたみたいな人には、私の気持ちは分からない』って、言いかけたけど」 「あ……ご、ごめんなさ、い」  自分の発言を省みて恥ずかしくなった花菜実は、あたふたしながら謝る。幸希はふわりと笑い、かぶりを振った。 「いいんだ、責めてるわけじゃないから謝るな。ただ僕は、花菜実のそういう気持ちは、多少は分かるつもりだから」 「え、水科さんが……?」  花菜実は目を丸くした。  こんなにもすべてに恵まれていて、星でさえ手に入れられそうなこの人に、一体どんな憂いがあるというのか。 「僕は今、ミズシナの後継者、水科家の跡取りと周囲から言われているけれど……実は、僕は水科家の血は一滴も引いていないんだ」 「え……?」  予想もしていなかった発言に、花菜実は驚いて幸希から身体を離し、彼の顔をまじまじと見つめた。 「父は、水科の母と再婚して婿養子に入った――僕と弟の篤樹は、父の連れ子なんだ」  幸希の父、嘉紀(よしのり)は、元々親が決めた留美子(るみこ)という、裕福な家庭の女性と結婚した。しかし留美子には結婚前から他に好きな男性がいたらしく。親によって引き離されて嘉紀と結婚させられたせいか、彼に愛情を寄せることはほぼなかったという。  かろうじて二人の子供――幸希と弟の篤樹をもうけはしたが、留美子は腹を痛めて産んだはずの二人の子供を抱くことすらしなかった。  幸希と篤樹は、使用人によって育てられたも同然だった。  二人がある程度大きくなると、留美子は結婚生活への不満を子供たちに向けて発露し始め、育児放棄(ネグレクト)のみならず、誰も見ていないところでの折檻まで始まった。  幸希は早々に彼女に『母』を求めることをやめてしまい、彼女の折檻に細やかながら抵抗もしていたし、自分がいる時には篤樹を守ってはいた。  幸希の頑張りのお陰なのか、幼い弟はそれでも母を慕い、愛情を求めた。しかし度重なる虐待に、篤樹は遂には表情を失くしていく。そんな弟に、留美子は追い打つように、 『少しは愛想よくして媚びてみたらどうなのよ! この役立たず!』  と言い放った。またその際に振るわれた暴力のせいで、篤樹は気を失って病院に搬送された。  大事には至らなかったものの、それがきっかけとなり、使用人が虐待の証拠を集め、最終的には嘉紀が親権を獲って離婚をすることが出来た。  幸希と篤樹の二人は父方の祖父母と同居し、周囲の大人たちは二人のメンタルケアに尽力した。  それから一年ほど経った頃、嘉紀はとあるパーティでミズシナ社長の一人娘、水科百合子(ゆりこ)と出逢い、お互いに好意を抱いた。  初めは百合子には近づきもしなかった子供たちだったが、彼女の誠意に触れる内、本当の母親のように慕うようになった。  そして二人の心の傷が癒えてきたのを見て、嘉紀と百合子は結婚。幸希と篤樹は『水科』の姓を名乗ることとなったのだった。 「――実母とはもう十年以上も会っていないけど、元々つきあっていた男性と結婚したと、風の噂で聞いたな。……まぁ、どうでもいいことだが」 「……いろいろ、つらかったですね」  花菜実は彼らの実母に強い憤りを覚えた。しかしいくら酷い母親だったとしても、他人が勝手に批判していいわけではない。だからあえてそこには触れなかった。 「父が再婚した次の年には妹が生まれて。水科の母は、僕たち三人を分け隔てなく、同じように自分の子供として育ててくれたんだ」  初婚でいきなり二人の母になった百合子は、手探りながらも懸命に幸希と篤樹を育ててくれた。妹が誕生した時も、 『正真正銘、血のつながったあなたたちの妹よ。可愛がってあげてね、お兄ちゃんたち』  と、生まれたばかりの赤ん坊を、真っ先に幸希たちに抱かせてくれたのだ。 「情に厚くて、すごく優しい母なんだ。僕も篤樹も、母をとても尊敬している」 「いいお母様なんですね」  話をしている幸希がとても優しげだから。水科兄弟は継母からすごく可愛がられて育ったのだろうということが、花菜実にもうかがえた。 「ちなみに僕の旧姓は『海堂』で、織田が勤務している海堂エレクトロニクスの親会社の社長は、僕の伯父なんだ」  海堂エレクトロニクスの持株会社、海堂ホールディングスの社長は、嘉紀の兄・義孝(よしたか)で、以前は嘉紀もそこで役員をしていたのだが、結婚後は籍をミズシナ株式会社へと移し、現在は社長の座に収まっている。 「弟さんも海堂エレクトロニクスに勤めてるんですよね? あと依里佳さんも……」 「そう。……弟は、僕と違って誰にでも笑顔で愛想がよくて、そして、自由で――僕はそんな弟が、羨ましいと思ったこともある」  確かに幸希は、声風や佇まいこそ温厚で穏やかだが、表情が柔らかく愛想が非常にいいとは言い難い。おそらく端正で精悍な顔の造作がそう見せているのだろう。  花菜実自身も、幸希に初めて会った時は少し気後れしたほどだ。けれど今は――見せる笑顔がとても優しく、そして温かいことを、よく知っている。 「――だけど、篤樹のそんな愛想のよさの裏側には、過去に実母から受けた心ない言葉の暴力が、トラウマとして根づいてしまっていた。ずっと笑顔の裏で必死に頑張って戦っていたのを知っているから、僕はあいつには絶対に幸せになってほしいと思うんだ。どうやらもう幸せは掴んだみたいだけどな……依里佳さんと出逢って」 「弟さん想いなんですね、水科さん」 「花菜実の兄姉(きょうだい)も同じことを思っているだろうし、花菜実自身だってそうだろ?」 「……それは、そう、ですけど」  でも自分は、姉の千里を傷つけてしまった――そのことが、花菜実の心にも棘となって残されている。 「僕も兄の立場だから分かることだけど……千里さんも、花菜実と同じような悩みを持っているんじゃないかと思うんだ」 「ちりちゃんが……?」  ルックスもキャリアも何もかもが花菜実と違うし、あんなに輝いている千里が、花菜実と同じようなコンプレックスを?  そう言われても、にわかには信じることが出来ない。 「この間動物園で会った時に、少なくとも僕はそういう印象を受けた」 「……でも」 「だから、明日実家に帰ったら……つらいかも知れないけど、ちゃんと話をした方がいいと僕は思う」 「話……出来る、かな……」  千里と向き合う勇気が持てるだろうか。顔を合わせたら、またいつかのように口汚く責めてしまわないだろうか――花菜実はそれが怖かった。 「どうしてもダメだったら、またこうして僕のそばで泣けばいい」  幸希が柔和な笑みを浮かべ、再び花菜実を抱きしめた。
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