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第21話
「……」
二人は沈黙を孕んで寄り添ったまま、緩やかな風が木々を揺らすのを聞いていた。そうして夜の闇がたっぷりと時を吸った頃、
「――花菜実が言うように、確かに千里さんや依里佳さんは美人だと思う」
幸希がいきなりナイーブな話題に切り込んだ。
「っ、は、はい……」
ほんのすこし傷ついたような表情で見上げる花菜実に、幸希は大丈夫だと微笑む。
「だからって、それは花菜実が劣っている、ということにはならないから」
「どういう……こと、ですか?」
幸希が言っていることがよく分からない。千里や依里佳と比べてしまうと、どうしたって自分の容姿は劣っていると言わざるを得ないし、周囲からもそう言われてきた。
発言の意図が知りたくて、花菜実は疑問の眼差しを差し向ける。幸希は甘い笑みを彼女に返して。
「例えるなら、彼女たちはバラやダリア――華々しくて鮮麗で、見る者を容易く魅了する吸引力がある」
確かに彼女たちは華やかで大輪の花が似合うし、それに見劣りすることのない美貌を持っている。そこにいるだけで皆が目を奪われる存在感がある。
そんな彼女たちに並び立つことなど、花菜実に出来るはずもなく――ますます落ち込みたくなってしまう。
けれど幸希は甘い瞳にほんのすこしの照れを混じえ、彼女を見つめる。
「――花菜実は……ビオラだと思う。可憐で健気で……愛おしくて、この手で守りたくなる。それに見ていると心が温かくなるんだ」
ビオラは、公園の植え込みや家庭の花壇や寄せ植えでしばしば見かける花だが、小さくて可愛らしく、彩り豊かだ。咲いている姿は確かに健気で――幸希が自分のことをそんな風に見ていたのかと思うと、何だか照れてしまう。
花菜実の頬が朱を刷いて染まる。
「あ、りがとう……ござ、います……」
「――そして、僕が好きな花は、ビオラなんだ」
幸希は花菜実の耳元でそっと囁いた後、彼女の少し冷たい頬にゆっくりと指を滑らせる。指先が顎に辿り着いた頃――幸希の顔が花菜実のそれに重なり、導かれるように彼女は目を閉じた。
初めはとても柔らかかった。育んだ温かな空気を壊してしまわないよう、そっと、そっと。何度も角度を変え、その度にちゅ……と音を立てて。
あまりにも軽いキスなので、終いにはくすぐったくなってくる。
「みず、し――」
「……名前で呼んで」
くちびるをつけたまま、幸希が問う。色気をまとったその声に酔わされて、請われるまま、花菜実はぎこちなく彼の名を紡ぐ。
「こ、うき、さ……」
「花菜実、好きだ」
「……っ」
花菜実の口元が緩んだその時、濡れた舌がくちびるを割って入って来た。多少強引にこじ開けられ、肩がビクリと揺れたが、幸希のそれはゆっくりと花菜実の歯列をなぞり、そしてその奥を目指した。
柔らかで澄んだ空気が一変して重たい桃色になる。
舌が絡め取られ、弄ばれる。その度に、塞がれたくちびるの隙間から粘膜が立てる音が漏れて。耳までもが蕩けてしまいそうになる。
こんな風に口の中をねっとりと探られ、根こそぎ奪われてしまいそうなくちづけは、生まれて初めてで。今、この行為を享受しているのは、本当に自分の身体なのかと疑いたくなる。
力任せに嬲るように吸われたかと思うと――次の瞬間には労るように啄まれて。あまりにも激しい不調和に思考までが翻弄され、頭の芯がぼぅっとしてしまう。
外気温は低くて肌寒いのに、身体が痺れて熱くなってきて。思わず毛布をぎゅっと握ってしまった。
全身のあらゆる感覚を、幸希に支配されているような気分になってくる。
キスがこんなにも濃くて苦しくて――そして気持ちいいものだなんて、今まで知らなかった。
自分のすべてが彼に囚われて、溺れてしまいそう。
(も……だ、め……)
嬉しいのに胸が苦しくて、涙が出そうになった時、ようやくくちびるが解放された。
二人の白い息の濃さが、キスの激しさを物語っていた。
とろんと目を蕩けさせ、濡れたくちびるを寛げ、息を乱した花菜実に、
「……可愛い」
小さく笑って一言漏らした後、
「僕は花菜実を他の誰にも渡したくない。だから、幼稚園の副園長に嫉妬したし、動物園では花菜実に抱きつく織田にもイライラした。……今さらながら、弟が依里佳さんに対して独占欲を起こす気持ちが分かるようになったよ」
照れたようにそう告げ、花菜実の涙を親指で拭い去った。
「……」
花菜実が恥ずかしさのあまりうつむくと、幸希は彼女の顎に手を添えてそっと上向かせ、それから、
「――もう一度、キスしていい?」
そう結び終えた頃には、もうくちびるを捉えていた。
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