第28話

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第28話

「ちょっと、幸希さん! すっかり婚約者扱いされちゃったじゃないですか! どうするんですか、あれ!」  園を出るなり、花菜実は幸希に抗議した。明日には園中の教職員が二人のことを知っているだろう。 「あははは、そうだろうな。そういうつもりで話していたからな」 「笑いごとじゃないですよ! ……ん? 幸希さん、今日は歩きなんですか?」  周囲を見回してみても、園の駐車場にも路上にも車を停めている様子がないので、尋ねてみる。 「あぁ、車は花菜実のアパートの来客用スペースに停めてきた」 「え、それでここまで歩いて来たんですか?」 「二人で歩いて帰りたかったんだ。自転車は僕が押すから、鍵貸して」  手を出す幸希に、おずおずと鍵を差し出す。 (この間の尚ちゃんみたい……)  花菜実は帰省した時のことを思い出した。イケメンはやることも似てくるのだろうか。  幸希は自転車を解錠し「ほら、荷物乗せて」と、カゴを指差す。 「ありがとうございます……」  花菜実はバッグをカゴに乗せ、彼の隣に並んで歩き出した。 「花菜実、今日は驚かせてごめん」 「ほんとに驚きましたよ! おまけに婚約者だなんて……明日からどんな顔して出勤すればいいのか……。もう……聞かれたら何て言ってごまかそうかな……」  幸希の詫び言を聞き、花菜実はテンションを跳ね上げた。明日、園中の人間からいろいろ聞かれるだろうことを考えると、頭が痛くなった。 「ごまかさなくていいよ」 「はい?」  幸希の言葉が理解出来ず、首を傾げて聞き返す。 「婚約者の件、僕は本当のことにすればいいと思ってる」 「……え?」 「結婚したらいいんだ、本当に」 「な……っ、な、何言ってるんですか!?」  耳を疑う台詞が幸希の口から飛び出し、花菜実は丸い目をさらに丸くした。 「僕はもうずっとそう思っていたけど?」 「ちょ、ちょっと待ってください! そもそも私たちって、ちゃんとおつきあいしてるわけじゃないですよね!?」  花菜実は立ち止まり、幸希に詰め寄る。確かに好きだとは言われたし、いずれは幸希を選んでほしいとも言われた。けれど「待つから」と言われたことを真に受け、まだ返事は保留のままだ。  それなのに結婚などという、段階をいくつもすっ飛ばしたようなことを口にされるだなんて、まったく思いもしていなくて。頭の中が混乱している。  すると幸希はスッと目を細めた。 「へぇ……花菜実はつきあっていない男と、あんな濃いキスをしてしまうわけだ?」  いきなり別荘での出来事に切り込まれ、うろたえるしかない花菜実。 「っ、……あ、あれは、ちょっと流されちゃっただけで……っ」 「なるほど……流されれば誰とでもああいうことをする、と」  自転車のスタンドを下ろして停め、軽く眉を吊り上げる幸希。 「ち、違いますっ。……あんなこと、したの……初めて、ですし、それに、」 「それに?」 「っ、……こ、幸希さん、じゃなかったら……拒否、してます……」 「……それは、僕にならああいうことをされてもいい、ということだな? どうして?」 「そっ、それは……」 「それは?」 「っ、あ、の……」 「ん?」と、顔を覗き込む幸希。 「うぅ……」  花菜実の顔は真っ赤だった。自分の指先同士を絡ませながらもじもじし、口ごもらせ唸っている。眉は完全に八の字だ。瞳はうるうると潤んでいる。  幸希は遂にクスクスと笑いだした。 「あぁ……ごめん。意地悪が過ぎたな。いいよ、言わなくて」  眉尻を下げながら、幸希が花菜実の頭をなでる。 「こ……きさん……」 「僕以外を受け入れるつもりはない、そう分かっただけでも十分だ……今はね」  確かに今この瞬間、幸希以外の男性とそういう行為をするつもりもないし、されそうになれば絶対に抵抗するだろう。  それは同時に、花菜実の幸希に対する気持ちがもう固まっていることを指しているわけで。その上、その想いはすでに彼に伝わってしまっているも同然で。  きっと今、ちゃんと告げてしまった方がいいのだろう。けれど、どうしても言葉が出て来ない。  そんな花菜実の心の内をすべて理解(わか)ってくれているのか、 「いつか、花菜実の気持ちを言わずにいられなくなったら……言いたくてたまらなくなったら、その時は聞かせてほしい」  解けた眼差しで花菜実を見つめた。 「……」  その甘さに当てられて、花菜実の瞳もとろけそうで。こくん、と一度だけうなずくと、幸希は彼女にそっとくちづけた。  マシュマロに触れるような、柔らかいキスだった。 「……」  くちびるが離れたと思うと、幸希が厳しい表情で後方を見つめたまま、動かなくなった。 「……幸希さん? どうしました?」  その視線に釣られたように、花菜実は後ろを振り返る。 「……?」  特に誰に見られていたわけでも、おかしいことがあったわけでもない。花菜実は首を傾げる。 「……気のせいか」 「何がですか?」 「……いや、何でもない。行こうか」  幸希は薄く笑ってもう一度花菜実にキスをすると、自転車のスタンドを蹴り上げ、再び押し始めた。  アパートに着くと、二人は幸希の車で夕食を買いに行った。車で五分ほどの場所にあるイタリア料理店でピザとパスタをテイクアウトし、再びアパートに戻る。店で出来たてを食べた方がいいのではと提案したのだが、 『花菜実の部屋で食べたい』  と、幸希が譲らなかったので、持ち帰って来た。  店で料理が出来るのを待っている間、やはり幸希は人目を引いており、女性客の視線を集めに集めていた。それを分かっているのかいないのか、彼はおかまいなしに花菜実に甘い言葉を綯い、時には頬にキスをしたりと、容赦ないほどベタベタしてきた。 『園の保護者の方に見られるかも知れませんから!』 『少しは自重してください!』  もちろん花菜実はその都度小声でそう諌めてはいたけれど――  幸希は見た目が精悍でシャープな印象なので、人前でそういうことをするようにはまず見えない。でもそんな硬めの面差しをひたすら甘く緩めて花菜実をかまい倒す様子は、意外だけれどひどく幸せそうに見える。そしてそんな彼を見ていると、何だか自分も幸せな気分になってしまう。  ――だから花菜実もそういう幸希の行為を、強くは拒めないのだ。
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