第29話

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第29話

「うん、美味い」  スイートポテトをひとくち口に入れた幸希が目を見張った。その様子を、花菜実はこわごわとうかがった。 「大丈夫……ですか?」 「さすが花菜実はいろんなケーキを食べてるだけあって、舌が肥えてるな。十分美味いよ。ブランデーが利いていて大人向けだな」 「舌が肥えているだなんて、大げさですよ。スイートポテトは簡単ですし……でも、よかったぁ」  花菜実は眉を開いて笑った。  食事の調達から帰って来て部屋に入るなり、幸希は開口一番、 『甘い匂いがする』  と、鼻を鳴らした。 『あー……昨日、スイートポテトを作っていたせいでしょうか』 『そうか……花菜実らしい部屋だな。お菓子の甘い匂い、可愛らしい家具……それにコンパクトだ』 『狭い、って言いたいんですか?』 『そんなことは言ってない。花菜実との距離が近くていい』  花菜実の部屋はワンルームではあるが、キッチンとリビングがPタイルとフローリングで切り替わっている。  キッチンにはダイニングテーブルを置けるほどのスペースがないので、リビングにコーヒーテーブルとソファを置き、花菜実は普段そこで食事をしている。  花菜実と幸希はソファに並んで座り、テーブルに買って来たものを広げて夕食を取った後、デザートにスイートポテトと紅茶を楽しんでいた。 「形もきれいな正方形で、店で売っていても違和感がないな」 「あ、それはですね、型を使ったんです。前に台湾に旅行に行った時に買った、パイナップルケーキ用の型に入れて焼いたんですよ」  花菜実は台湾銘菓の鳳梨酥(オンライソー)と呼ばれるパイナップルケーキが好きで。自分でも作りたいと思い、現地で専用の型を買って帰って来た。それを今回使ったというわけだ。  我ながら上手に出来たとは思うが、他人に振る舞うとなるとまた話は別で。自分が美味しいと思っていても、他人に受け入れられるとは限らない。ましてやいい食材や調理に舌を鍛えられているだろう幸希の口に合うとは、とても思えなかったのだが。 「美味かった、ごちそうさま。ありがとう」  完食した幸希は満足そうに手を合わせた。かろうじて及第点は貰えているのは確かなようで、花菜実はホッとした。 「お粗末さまでした」  花菜実は皿を持ってキッチンに向かう。洗うのは後にしようと、シンクに置いた。 「花菜実」  振り返ると、幸希が手招きをしている。手を洗って拭いてから彼の元へ行くと、腰周りに腕が絡まり捕らえられた。そのまま幸希の脚の間に挟まれる形になる。彼はと言えば花菜実のみぞおち辺りに顔を埋めたまま動かない。 「ど、どうしました……?」 「……充電してる」  ポツリと吐き出された言葉。それに何と答えたらいいのか分からず、そしてどう動いたらいいのかも分からず、そのまま黙って立っていた。 (きれいな髪……)  普段見上げてばかりの幸希の頭が、今は自分よりも下にあって。目の前にある黒羽色の髪からはほのかにシャンプーの香りがする。それにコシがあってつやつやとしている。  思わずそこに手が伸びてしまって。そっとなでると、少し硬い感触が返って来た。 「――花菜実、これだけは確認させて」 「何ですか?」  幸希は顔を起こし、一寸たりとも反らさずに花菜実の目を見据えた。 「僕たちは、つきあってる。……それで合ってるな?」  いきなりの問いに、花菜実はぱちぱちと目を瞬かせる。幸希があまりにも真剣で、それでいて縋るように見つめてくるから。  ある程度の答えが求められているのだと、花菜実は理解した。  幸希以外を受け入れるつもりはない――それは紛れもなく、 (そういうこと……なんだよね)  花菜実は幸希の目を見つめたままほんの少しだけ時間を貰って、頭を整理し、そして―― 「……はい」  ゆっくりとうなずきながら、少し上擦った声で応えた。  刹那、幸希の表情が一気に緩んだかと思うと、両の頬に手を添えられて引き寄せられ、そのままくちづけられた。すぐに舌がねじ込まれ、自分のそれを絡め取られる。 「ん……っ」  中腰でキスを受けている上に、脚が震えてきたので少しつらくなる。すると幸希がくちづけたまま花菜実を自分の右腿に座らせた。腕は再び彼女の身体に回っていて、やわやわと腰周りをなでている。触れられているところからじわじわと甘気が滲んできて、鼻腔を通る吐息に艶が増してくる。 「……ん、ぅ……」  口の中すべてが敏感になり、どこを舐められても震えてしまう。身体の奥に小さな情火が点り始める。  何だかもどかしくて、もっともっと触れてほしいとさえ思ってしまう。こんな自分を知ったら、幸希は呆れてしまうだろうか。  どれくらい経ったのだろう。幸希に翻弄されて時間の感覚さえ麻痺してしまっている。そこからさらにしばらくして、ようやくくちびるが解放されて。  深く長い吐息の後、 「……よかった」  そう聞こえた。  頭がぼぅっとしているので、その言葉の意味するところがよく分からなくて。とろとろになった瞳を幸希に向けると、 「それだけは確認したかったんだ」  安堵感に満ちた笑みで、もう一度くちびるにキスをした。 (あ……そっか……)  つきあってる――やっぱり彼は二人の関係にちゃんとした名前をつけたかったのだろう。 (もしかして……幸希さんも不安だった……の?)  今までそっけない台詞ばかり言ってきたから。  曖昧な態度しか取ってこなかったから。  はっきりとした言葉で気持ちを示していないから。  考えてみると、自分からは甘い言葉も態度もほとんど見せたことがなかった。幸希からあれだけたくさん愛情を注がれてきて、上辺ではつれない言葉で拒んでは見せても、心では確実に受け止めていたのに。  昔のトラウマを癒やすように愛を囁かれた時も、別荘でキスをされた時も、嬉しくてたまらなかったくせに、それをきちんと態度で示してはいなかった。  本当に中途半端な素振りしか見せてこなかったから。幸希が二人の関係に不安を感じるのも当然のことで――それを自覚した途端、途轍もない罪悪感に襲われた。何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 (私って、実はものすごく嫌な女なのでは……)  思わず自分を詰りたくなった。  そうしてひとしきり反省した後に、心に込み上げてきたのは――愛おしさで。心臓が甘い綱にぎゅっと縛られて苦しくなる。 「……花菜実? どうした?」  花菜実のただならぬ様子に、何かを感じ取ったのだろう。幸希が心配そうに顔を覗き込んできた。そんな彼が何だか眩しく見えて、心が疼いてしまう。 「あ、の……」 「ん?」  花菜実はおずおずと幸希の頬に触れた。両手を添えて、そして――くちづけた。自分からくちびるを寄せて、そっと押しつけた。  それはほんのつかの間だった。幸希からのキスとは違い、すぐに終わりを迎えた。離れた途端、彼女の頬はポッと音を立てる勢いで赤らんだ。  今の花菜実にとっては、これが精一杯で。けれど、彼女の胸の内を伝えるには、それで十分だった。 「……初めて花菜実からしてくれた」  その顔はそれは嬉しそうに相好を崩していたから。  幸希は花菜実を膝から下ろし、 「残念だけど、そろそろ帰るよ」  名残惜しそうに告げて立ち上がると、ハンガーにかけてあったスーツのジャケットを身に着けた。 「……」  その姿を見た花菜実の心は急速に冷えて、ズキリと痛みを覚えた。何だか淋しくて、離れがたくて――帰ってほしくなくて。  思わずジャケットの裾を摘んで引っ張った。 「花菜実?」  きっと今、自分の顔はさっきよりも真っ赤だろう。頬が火照って熱くなっている。それでも幸希を見上げ、そして、 「今日……泊まって行きません……か?」  消え入るような声を絞り出した。  幸希は目を丸くして花菜実を見た。彼女はいたたまれなくなってうつむく。少しの沈黙の後、ふ、と笑う声が聞こえて。  幸希は花菜実の頬に手を添えて仰がせ、額にキスを落とした。そして、 「それは最高に魅力的なお誘いだな。……でも今日泊まったら花菜実は多分、明日幼稚園に行けなくなるから」  困ったように小首を傾けた。 「っ、」  その意味を把握した花菜実は、ますます頬に朱を(はだ)いた。幸希は玄関で靴を履くと、 「今度は休みの前の日に、その言葉が聞きたい」  笑ってそう告げて。最後にもう一度だけ花菜実にくちづけ、アパートを後にした。  その週末は二人で水族館へ行った。  幸希はやっぱり人目もはばからず花菜実にベタベタし、甘ったるい言葉と眼差しで彼女を甘やかした。  人気がない場所では息も出来なくなるほど深くくちづけられ、きつく抱きしめられて。  二人の関係に『恋人』という名前がついたことで、箍が外れてしまったのだろうかと、少し心配にすらなった。  けれど、車で家まで送ってくれた時、部屋に寄って行くかどうかを尋ねると、 「今日のところは帰るよ」  残念そうな様子を見せながらも、アパートのドアの前でキスだけをして帰って行った。  どこが、とははっきり言えないけれど、どことなくいつもの幸希とは違っていた。 (どうしちゃったんだろう……)  花菜実は何だか胸騒ぎがした。
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