第3話

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第3話

 運動会が終わったら、次はバザーだ。バザーは主にPTAおよびボランティアが主体となって行われているが、教職員にももちろん山ほど仕事はある。その打ち合わせや準備が始まった。  気持ちを運動会モードから切り替えねばならない。その直前にはいも掘り遠足も控えている。それに十月の誕生会に向けての用意もあるし、通常業務だって変わらずにある。  花菜実は相変わらず忙しい平日を送っていた。  一週間の保育が終わった金曜日の夕方、帰宅しようと園を出て駐輪場に向かい、停めてある自分の自転車を解錠した。 「今週もやっと終わったぁ。明日はちなみと一緒にケーキ屋巡りだぁ」  翌日の予定に思いを馳せ、気持ちを弾ませながら自転車に跨がろうとしたところ、 「織田花菜実さん」  後ろから声をかけられた。 「はい?」  返事とともに振り返ると、そこにはコンパクトな白の輸入車が停まっており、運転席からスーツ姿の男性が降りてきた。 「あ……あなたは……」  蓮見一家と一緒に運動会を観覧していた、隙のない美貌を湛えたあの彼だ。本人は決して過度に愛想をよくしているわけでも、見た目をよりよく見せようと演出しているわけでもないのに、何故かキラキラを身にまとっている。持って生まれたオーラなのかも知れない。  アーモンド型の力強い目、ナチュラルに整えられた眉、きれいな筋を伴った鼻、薄めのくちびる――すべてのパーツが美しいフォルムを描き、美しいフォーメーションでもって配置されている。  黒羽色の髪は手入れが行き届き、つやつやと輝いている。  背は花菜実よりも三十センチは高い。脚の長さは言わずもがなだ。  見る者すべてを魅了するスペックを、生まれながらにして持ち合わせているようだ。  けれど、麗しくも精悍で引き締まったその顔の造作は、少しだけ花菜実を威圧した。  それが彼女の表情に出ていたのか、 「いきなり声をかけてすまない。僕は怪しい者じゃない」  かすかに眉尻を下げて、男がジャケットの内ポケットから名刺ケースを取り出し、中の一枚を花菜実に差し出した。彼女はそれをおずおずと両手で受け取り、印刷されている文字を音読した。 「ミズシナ・リサーチ&ディベロップメント、経営コンサルティング事業本部、経営戦略改革推進部、市場リサーチ課、主任、水科(みずしな)幸希(こうき)……」 (長っ……舌、噛みそ……)  一般的な会社に属していない花菜実には、到底覚えられそうにない長い名だ。彼女の兄も一般企業に勤めているが、確か彼の名刺にもやたら長い部署名が印刷されていたように記憶している。  普通の会社員は皆、このような長い肩書を背負って仕事をしているのかと、若干面食らった。  しかし次の瞬間にはそれを忘れ、小さな紙の中にとある発見をする。 「……ん? 会社名と名字が一緒なのは偶然ですか?」  名刺に目を落としたまま尋ねると、その男――水科幸希はわずかながら躊躇した後、やや小さめな声で、 「あぁ……ミズシナの社長は父で、僕は今、子会社に出向中なんだ」  と、答えた。花菜実はそれに食いつくわけでも驚くわけでもなく、淡々と話を次に進める。 「はぁ……そうですか。で、私に何かご用ですか?」  花菜実は幸希を見上げる。その眼差しにはこれと言って特別な反応などなく、ただ純粋に彼にものを尋ねている目をしていた。彼女の反応の薄さが意外だったのか、幸希は一瞬目を見張る。けれどすぐに表情を元に戻し、そして、 「織田花菜実さん、僕とつきあってほしい」  まっすぐに花菜実の瞳を見据えて告げた。  さすがにこの言葉は予想出来なかったのか、彼女は丸い目をさらに丸くして言葉を呑んだ。二人の間に沈黙が横たわる。  花菜実は言葉の意味を考えた。考えて考えて。おそらく答えはこれしかない、と結論づけて。  でもどうしてこの人が私にそんなことを頼むの? ――という疑問と困惑をその言葉に乗せ、 「……どこへですか?」  彼女渾身の答えを紡ぎ出した。それを聞いた幸希は言葉に詰まったように黙り込み、少しの後、クスクスと笑いだした。 「……助詞が『と』なのに、その返事はおかしい」  見た目では想像出来ないほど優しい口調でそう切り返され、花菜実はいよいよ彼の意図が分からなくなった。 「じゃあ、何が言いたいのよ……」  眉根を寄せ、くちびるを尖らせてぼそりとぼやく。そんな彼女を見て、幸希は笑みを深くし、そしてさらに甘くなった声音で、 「僕は君のことが好きなんだ。だから恋人としてつきあってほしい――これが僕の言いたいこと。分かってくれた?」  これ以上はっきり言いようがない、という告白をした。 「……」  花菜実は額に自身の指を押し当て思案した。彼がそのようなことを言い出した目的を探るために、放たれた言葉を咀嚼する。 (芸能人じゃないんだから、ドッキリはないだろうし……) (エイプリルフールは半年先だし……) (……そもそもどうして、この人は私のことを知ってるの?)  考えれば考えるほど頭が混乱してきたので、そこで思考をシャットアウトした。彼の目的が何であれ、回答は初めから決まっているのだから。  花菜実はニッコリと笑う。そして幸希を見上げた。 「ちょっと屈んでもらっていいですか?」  と、だいぶ高いところにある彼の顔に向かい、手招きをした。 「?」  幸希を首を傾げつつ、膝を曲げて目線を彼女に合わせた。すると花菜実はいきなり彼の額を指で突き、 「こら、ダメじゃないですか」  と、彼を責めた。けれどその顔は笑みで満たされている。 「……は?」 「あなたのようなエリートイケメンが、無闇に女の子をからかったりしちゃダメでしょ? 私だからよかったものの、本気にしちゃう純粋な子だっているんですからね!」  人差し指を掲げて笑いながら、めっ、と、園児に優しくお説教するような口調で、花菜実が続ける。  幸希は呆気にとられたように、口を開いたまま固まっている。 「……」 「それから。蓮見依里佳さん……あなたの彼女でしょう? 翔くんが言ってましたよ? 男の子はおつきあいしている女の子を泣かせるようなこと、しちゃいけません。……分かりましたか?」  ん? と、確認するように、顔を覗き込む。 「……」 「あとこれも、無駄に使うのはもったいないのでお返ししておきますね」  花菜実は呆けたままの幸希の手を取り、手の平に名刺を乗せた。 「それじゃあ、失礼しますね。これからはこういうことしちゃダメですよ~」  手を振りながら、花菜実は自転車を駆ってその場を去って行った。
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