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第31話
「かなみせんせい~、みて~! 『りゅううさ』のりゅうかいたぁ~」
「……」
「かなみせんせい? どうしたの? おなかいたいの?」
クラスの男児が顔を覗き込んできて、そこで初めて我に返った。
「……あっ、ご、ごめんね? 見せてくれる? ……わ、すごい上手に描けたね~! じゃあ今度はさ、うさぎも描いて見せてくれる? 先生、うさぎも見たいなぁ~」
(だめだめ、お仕事の時はちゃんとしないと。子供たちに何かあったらいけない)
「かなみせんせい~、りさこちゃんがころんじゃった~」
「あらら、りさこちゃん大丈夫かな? ちょっとお膝見せてごらん? ……汚れちゃったけど、血は出てないから大丈夫だね。歩いたら痛いところはある? 大丈夫? じゃあ、きれいにして来ようか」
泣いている女児を洗面所に連れて行き、濡らしたタオルでまずは涙まみれの顔を拭ってやり、それから膝周りをそっと拭いてやる。
それから改めて固く絞ったタオルで、制服の汚れを落とすと、
「もう痛くないかな?」
女児の顔を覗き込む。
「かなみせんせい……ありがとう……」
笑ってうなずくのを見て、花菜実はホッとする。
昨夜はよく眠れなかった。うつらうつらとするものの、ふとした拍子に写真や音声ファイルのことを思い出してしまい、ハッとしてしまう。それの繰り返しだった。
メッセージで真意のほどを聞いてみようかと思った。けれど、もし大学時代のあの時のように、辛辣な言葉が返って来たら……今度こそきっと、立ち直れないほど打ちのめされてしまう気がして、尋ねることは出来なかった。
写真とUSBメモリは封筒に戻し、キャビネットの奥にしまい込んだ。目につかないところに置かないと、心が折れてしまいそうだったから。
(私……どうしたらいいんだろう……)
こんなこと、誰にも相談出来ない。ちなみに言おうものなら、それこそ心配させて仕事に支障をきたしかねない。ちなみは人命を預かる仕事をしている。変な心配ごとなどないに越したことはない。
(尚ちゃんは……無理だ……)
尚弥に漏らせば、幸希の職場に乗り込むような暴挙には至らずも、千里とともにあれこれ策を巡らせて報復しようとするに違いない。
「はぁ……」
(……っと、いかんいかん)
子供たちを見ながら思わずため息をこぼしてしまい、また自分を叱咤する。
「花菜実先生、大丈夫?」
朋夏が肩を叩いてきた。
「あ……うん、大丈夫、だよ!」
今現在持っているだけの元気をすべて全面に押し出して、花菜実は笑った。
「何だかちょっと顔色悪い気がするけど、ほんとに平気?」
「平気平気、昨日寝るの遅かったからさ、少し寝不足なだけ」
「婚約者さんとケンカでもした?」
一瞬ギクリとしたけれど、極力それを顔には出さない努力をした。
「ううん、してないよ?」
「そか、ならいいけど。あれだけのイケメン、逃してはならんぞ~」
朋夏が笑いながら花菜実の頭をくしゃりとなでた。
あれから園の教職員には幸希のことで散々からかわれた。おまけに、
『あんなイケメンと婚約なんて、羨ましすぎる、花菜実先生!』
『婚約者さんのお友達、紹介して!』
『合コンやろ? 合コン!』
出逢いを求める同僚教員に、真剣な表情でそう言い募られた。
曜一朗にすら、
『先日の彼、私が不在の間に園に来られたそうですね。よほどあなたが心配と見える。本当に愛されているんですね、花菜実先生』
ニコニコニコニコと、邪気のない笑顔でからかわれてしまった。その都度、
『はぁ……』
『いやぁ……』
『あははは……』
と、適当にお茶を濁していたのだが。
こんなことになるくらいなら――
あの日「婚約者じゃありません」と、きっぱり言っておくべきだったのに。
『ごまかさなくていいよ。婚約者の件、僕は本当のことにすればいいと思ってる』
あんな言葉を鵜呑みにするべきではなかったのに。
『僕たちは、つきあってる。……それで合ってるな?』
二人の関係に、名前などつけてはいけなかったのに。
今さらながら、花菜実は激しい後悔に見舞われた。
「……かなみせんせい? だいじょうぶ?」
翔が心配そうに声をかけてきた。
「ん? どうしたの? 翔くん」
「かなみせんせい、かなしいかおしてるよ? ないてるの? ティッシュもってくる?」
いつも元気な翔が、声のトーンまで落として花菜実を心配してくれているのが見て取れる。
(あぁ……ほんとだめだ、私。こんな小さい子にこんな表情させて……! 先生失格!)
「ありがとう、翔くん。大丈夫だよ! ちょっと目にゴミが入っちゃったから、さっき洗ってきたんだよ。心配してくれたんだね、優しいね、翔くん」
「そっかぁ~、おれ、かなみせんせいすきだから、げんきだして!」
「ありがとう~。先生も翔くん大好きだよ~」
「わたしもかなみせんせいだいすき~」
「ぼくも~」
近くにいたひまわりぐみの児童たちが、花菜実めがけて駆け寄り、一斉に抱きついてきた。
はずみで少しよろけてしまうが、何とか全員のタックルを受け止めた。
「……っとと。わぁ~みんなありがとう~。先生もみんながだぁいすきだよ~」
子供たちのパワーと純粋な好意に、花菜実の心はほんのわずかながら癒えた。
「花菜実先生、ちょっと園長室までよろしい?」
放課後になり、園長に声をかけられた。
「あ、はい……」
園長に続き、園長室の中に入る花菜実。中ほどにあるソファを勧められたので、腰を下ろした。一体何を言われるのだろうと、花菜実はおずおずと尋ねる。
「園長先生……何でしょうか?」
「ふふふ、怖がらなくても大丈夫ですよ。別に叱るわけじゃないですから」
少し怯えたような花菜実が面白かったのか、園長が笑みこぼす。
「す、すみません」
「――花菜実先生、身の回りで何か変わったことでもありましたか? 今日は何だか元気がなかったので」
その言葉に花菜実は思わず目を見開いてしまうが、すぐに持ち直し、かぶりを振った。
「いえ、別に……ちょっと寝不足だったものですから。申し訳ありません。明日からは気をつけます」
園長はさらに笑みを深くする。つかみどころのない、成熟した表情だ。こういうところは曜一朗とよく似ていると花菜実は思う。
「花菜実先生、こう見えても私ももう何十年も人間を見る仕事をしてきてますし、あなたの倍以上は生きてきてます。あなたに何かあったのは一目瞭然で分かりますよ? 今はあえて何も聞きませんけれど、もしどうしても困ったことになったり相談したいことがあれば、私でよければいつでも伺いますからね。もちろん、他言はいたしません」
「あ……ありがとう、ございます」
「もしもあなたに何かあって、園で一番悲しむのは園児たちですから。子供たちを悲しませないよう、それだけは心しておいてください」
園長が表情を引き締める。釣られて、花菜実も背筋を伸ばした。
「はい、肝に銘じます」
「何なら、水科さんの愚痴でも何でも、伺いますからね。……今日は、おゆうぎ会の準備をお休みして、早くおうちにお帰りなさい。そして、よく眠りなさい」
彼女の優しい言葉に、花菜実の心はまた少し癒やされた。
「は、はい……ありがとうございます」
(園長先生にまで心配かけちゃった……申し訳ないなぁ……)
園長室を出た花菜実は、大きく息をつきたいのを堪える。
そして園長の言葉に甘えて、早々に帰宅させてもらった。
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