第32話

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第32話

 夕飯時――食欲はあまりなかったけれど、食べないと仕事が出来ないので、とりあえず鶏胸肉を入れた雑炊を作った。それにネギとにんじん、しめじを入れて、塩で味を整えて食べる。 「あ……いける。美味しい」  もたもたしているとご飯が水分を吸ってしまうので、何とかお椀一杯を完食した。残りは明日の朝食にいただくつもりで、冷蔵庫にしまった。  食器を洗い、それからシャワーを浴びて、早々にベッドに潜り込む。 「メッセージ……してみようかな」  例の件には触れずに、仕事の様子と体調だけ……。どういう反応が返って来るのか、試してみたい気持ちがあった。  花菜実は寝転がりながら、スマートフォンを取り上げ、 『こんばんは。お仕事の方はまだお忙しいのでしょうか?体調は崩してないですか?』  それだけを幸希に送ってみた。五分ほどして、 『心配ありがとう。大丈夫だから。』  それだけが返って来た。少しそっけない気はするけれど、疲れているのだと思えば、それほどおかしくもない返信だ。これ以上続けるのも悪いと思い、そこで終了させた。 (ほんとに……どうしたらいいんだろう……)  ぼぅっと考えている内に、眠くなってきて。あと少しで眠りに落ちるという瞬間、携帯の着信音が鳴った。  思わずビクリと肩が震え、目がパチリと開いた。 「びっ……くりしたぁ……」  慌ててディスプレイを見てみると、アドレス帳には登録されていない番号からだった。 (誰だろう……)  恐る恐る通話ボタンを押す。 「もしもし……」 『――花菜実?』 「っ、」  弾みで通話終了のボタンを押してしまった。  録音ではない、幸希の声を直に聞いたのは久しぶりで。それに、例の写真の件を頭に残したまま、彼と通話する心の準備が何一つ出来ていなくて。  咄嗟に電話を切ってしまったのだ。  心臓の鼓動がとても速くて、痛くなる。 (ものすごく……感じ悪かったよね……今……)  自分がとても失礼なことをしていることは分かっている。けれど、今、電話の上ですら、彼と対峙する勇気が出ない。  もし例の写真や音声ファイルのことを尋ねて、肯定されたらと思うと怖くて。けれど、そのことを心の中で押し殺しながら、何食わぬ顔で幸希と過ごすことももはや出来そうになくて。  結局、自分の中ではまだ何も折り合いがつけられていないのだ。  もやもやとそんなことを考えている内に、もう一度、同じ番号からの着信が告げられる。 「……」  花菜実は身動きを取ることが出来なかった。着信音はしばらく鳴った後、留守番電話に切り替わったようだ。幸希は何かメッセージを残しているだろうか。  けれど今の花菜実にはそれを聞く余裕がない。  ディスプレイ上でなら何とか対応出来るけれど、直接やり取りをするにはまだ―― (もう少し……時間が欲しいよ……)  そんな風に考えながら、悶々とした夜を過ごした次の日、今度は尚弥から電話があった。 『かな~、おまえあのイケメンセレブとケンカでもしたのか~?』 「え?」 『あいつ、どこで番号知ったのか、昨日の夜、俺に電話してきてさ~。「花菜実に変わったことはないか」って聞いてきたんだよ』 「尚ちゃんに……?」 『俺が「別に変わったことはないはずだけど」って言ったら、すぐ切れたけどさ。痴話ゲンカに俺を巻き込むのやめてくれよ~。まぁ、俺はいつでもかなの味方だけどさ~』  声の様子からすると、どうも尚弥は多少酔っ払っているようだ。テンションもいつもよりさらに軽い。 「べ、別にケンカなんてしてないし……」 『じゃあ、あいつがかなを怒らせたのか~? まぁ、言い訳くらい聞いてやれよ。……あいつもいろいろ大変なんだしさ』 「大変?」 『チラッと聞いただけだけど、会社でいろいろあったらしくて、その解決に奔走してたらしいぞ』  それは花菜実も聞いてはいたけれど、どうしてそれを尚弥が知っているのか。幸希から聞いたのだろうか。 「そうなんだ……」 『何があったのかは知らないけどさ、かのオスカー・ワイルドも言ってるだろ? 「この世の真の神秘は目に見えるものではないのだ」って』 「……尚ちゃん、それ逆だよ。『この世の真の神秘は目に見えるものであって、目に見えないものではないのだ』でしょ」  日本の名だたる文豪たちに影響を及ぼした海外の作家の名言――それをかっこよく持ち出したのはいいが、間違っていたという尚弥らしくない失態。花菜実はやれやれと肩をすくませた。 『あれ? そうだったっけ? ……ともかく、目に見えるものが真実とは限らない、と俺は言いたいわけ』 「……もう分かったから。尚ちゃん、今日酔っ払ってるんでしょ?」 『あ、バレた? 今日飲み会誘われて、飲んで来たからさ~』 「もう切るよ? 私寝るから」 『ケンカしたなら仲直りしろよ~』  そう言い残して、尚弥は電話を切った。花菜実は大きく息をついた。 「もう……尚ちゃんはしょうがないなぁ……」  苦笑しながらも、兄が放った一言がやけに引っかかった。 『目に見えるものが真実とは限らない』  幼稚園でも、園児同士のトラブルがあった場合、当然ながら必ず両方の話を聞くことになっている。片方の主張だけを聞いて鵜呑みにしてはならない。  人はとかく聞いたことを自分の主観で処理してしまいがちだし、自分の目で見たものをどうしたってそのまま信用してしまう生き物だ。  だからこそ、収集した情報の精査が大切で――頭では分かってはいても、なかなか出来ないのが現実だけれど。 「……」  花菜実は出逢ってから今までの幸希のことを思い返していた。そう、自分が彼のことをだ。  少し強引だったけれど、幸希は極めて誠実だった。そして花菜実をとても大切にしてくれていた。  彼女のトラウマを癒やしてくれ、姉と仲直り出来るといいと願ってくれた。別荘で眠ってしまった花菜実をベッドまで運んでくれて、何もせずただ寝かせてくれた。  星空の下、とつとつと語ってくれた彼の生い立ちが、花菜実を騙すための嘘だとは思えない。  今まで感じてきた幸希の温かさとか優しさが、本物ではなかったなんて、どうしても信じられない。  ――本当に彼は、あの写真や音声が示すような不誠実な男なのだろうか。  花菜実はさっき尚弥に言った、オスカー・ワイルドの言葉を思い出した。 『この世の真の神秘は目に見えるものであって、目に見えないものではないのだ』  尚弥が言った言葉と併せて考えてみれば、目に見える事象の中には正しいものもあれば、そうでないものもあるということになる。  それらの真偽の取捨選択は、自分でするしかない――だんだんとそんな風に思えてきた。 (尚ちゃん……やっぱり私のお兄ちゃんだ。ありがとう)  きっかけをくれた酔人に、心でお礼を言った。  花菜実はスマートフォンの留守番電話画面で、昨夜の録音を探し、そして再生した。 『――花菜実、身の回りで何か変わったことは起こってないか? 変なものは届けられてないか? 出来れば会って話をしたいから、折り返してくれると嬉しい』  心配そうな声がそう言っていた。 「変なもの、って……やっぱりアレのこと、かな」  確か同封されていた手紙には、幸希の会社にも送ったと書かれていたので、彼の元にも同じものが届いている可能性はある。  花菜実は何気なく着信履歴に残された番号を見た。そして、 「……あれ?」  首を傾げた。  昨夜かかってきた幸希の番号は、花菜実の携帯に登録されていないものだった。けれどその数字の羅列をよくよく見てみれば、どこか見覚えがあった。 「どこかで見たことあるような……。……あ」  花菜実はバッグから財布を取り出し、カードスペースにしまってあった幸希の名刺を取り出した。初めて二人で出かけた日、アパートの前で貰ったものだ。  それを裏返すと、幸希の字でプライベートの番号やメッセージアプリのIDが記されている。そこに書かれた電話番号が、着信履歴に残されていたものと同じだった。 「え……どういうこと?」  確か携帯番号は変わったはずだ。留守電に確かに幸希の声ではっきりと録音されていた。だから花菜実は自分のアドレス帳にあった彼の番号を変更したのだから。  けれど、以前の番号を通して幸希から電話がかかってきて……。 (何が何だか……)  さすがにこれは何かおかしいと思う。  あの写真を見てショックを受け、音声を聴いて打ちのめされそうになったけれど――今この瞬間、自分の目と感覚を、どうしても信じてみたくなった。  でもいきなり本人に突撃するのは、花菜実にとってはまだ荷が重くて。せめてもうワンクッション欲しいと思った――そう、確かな情報を。  花菜実は考えを巡らせ、彼女が欲しい情報(もの)を持っていそうな唯一の人物に連絡を取るべく、メモとペンを取り出した。
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