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第33話
「花菜実先生に呼び出されるなんて、意外でした。しかもカラオケボックスに」
ふふふ、と目の前の女性が笑った。
「突然お呼び立てしてすみませんでした、依里佳さん。どうしても二人きりでお話ししたかったので……」
翌朝、花菜実は登園した翔の母親に、どうしても依里佳と連絡が取りたいと、自分の連絡先を記したメモを渡した。
連絡はすぐに来た。放課後に携帯電話を見てみると、いつでもいいとメッセージが入っていた。彼女の言葉に甘え、早速、夜に近場のカラオケボックスの前で待ち合わせをした。
現れた依里佳は、相変わらず美人であったが、それに加えてキラキラをまとっていて。何だかとても幸せそうに見えた。
「それで、お話って何ですか?」
個室でテーブルを挟み、向かい合って座る。と同時に、依里佳が早々に口火を切った。
「あの……って、あれ、もしかして依里佳さん、それ……」
ふと見ると、依里佳の左の薬指に、ハート型のダイヤモンドが輝いている。思わず指差してしまった。
「あ、はい。婚約しました」
「わぁ! おめでとうございます!」
はにかんだ依里佳に、花菜実は心からの拍手を送る。
「とは言っても、まだこれを貰ったばかりで、何も決まってないんですけどね」
そう言って指輪を見つめる依里佳は本当に幸せそうで。見ている花菜実も嬉しくなってしまう。
「失礼ですが、お相手は……水科さん、ですか?」
「え、花菜実先生、ご存知なんですか?」
思わず口を滑らせてしまったが、よくよく考えてみれば、花菜実が水科兄弟の事情を知っていることを、依里佳が知っているわけがなく。一瞬だけ、しまった、と思ったけれど、いずれにしても今日はそのことで呼び出したので、花菜実は開き直る。
「実は、お話というのは、その水科さんのことなんです……けど」
「水科さん? 篤樹……あの、私が婚約した彼のことですか?」
「あの……いえ、お兄さんの方です」
「幸希さん?」
依里佳がきょとんとして花菜実を見つめる。
「どうやって話したらいいのか……私、その……実は、幸希さんとおつきあいしてまして……た、ぶん、ですけど」
花菜実が継いだ言葉に、目を丸くする依里佳。
彼女のように美しくもないこんな自分が、いきなり「幸希とつきあっている」などと切り出したところで、信じてくれる人など滅多にいないだろう。それもあり、花菜実は慌てふためいた。
「あ、嘘とか妄想とかじゃないんです! えっと、どうしよう……あ、そうだ」
花菜実はスマートフォンを取り出し、幸希と一緒に写っている何枚かの写真を依里佳に見せた。どれもこれも、幸希に半ば無理矢理撮られてしまったものだが、これらがここへ来て役に立つとは彼女も思わなかった。
「証拠、と言えるか分かりませんが、妄想じゃないことは分かってもらえると思うのですが……」
おずおずと依里佳の顔をうかがうと、彼女は堪えきれない様子で噴き出した。
「ふふっ……可愛いなぁ、花菜実先生」
「へ?」
「……私、知ってますよ? 花菜実先生が幸希さんとおつきあいしてるの。ごめんなさい、花菜実先生の反応が可愛らしくて、知らない振りをしちゃいました」
依里佳はどうやら、花菜実があたふたしている姿を楽しんでいたらしい。それはいいとして、何故彼女が二人のことを知っているのだろう。それを尋ねると、
「んー……話せば長くなりますけど、先月の翔の誕生日の時、幸希さんが大きなプレゼントを持って来てくれて。……それ、花菜実先生が選んだんですよね?」
「あ……はい」
依里佳曰く。翔の好みをよく分かっているプレゼントだったので、どうやって選んだのか篤樹が尋ねたらしい。幸希は初めは随分と渋っていたが、最終的には、翔の担任に選んでもらった、と白状したそうだ。
「それで、幸希さんと花菜実先生って知り合いなのかな? って思ったのが最初です」
その後も、花菜実と曜一朗が駅の近くで幸希と出くわした場面を、依里佳の兄が見かけたこと。加えて、イタリア料理店で幸希にかまい倒される花菜実を、依里佳と彼女の義姉――つまりは翔の母親が目撃したこと。依里佳はこれらを語った。
「あっ、あれをみ、見ちゃったんですか……!?」
だからあれほど「園児の保護者に見られたら困る」と言ったのに……! ――花菜実はがっくりと肩を落とした。
「まぁそういう場面に何度か遭遇すれば、誰でも気づいちゃいますよね、二人はつきあってるんだろうなぁ、って。だから、花菜実先生の妄想じゃない、って、ちゃんと分かってますよ、私。っていうかむしろ、アレはどう見ても花菜実先生よりも幸希さんの方がベタ惚れ、って感じでしたし?」
依里佳がニヤニヤと笑いながら、語尾を上げる。
花菜実は思わず頬を染めてうつむいた。
(あぁもう……照れてる場合じゃないのに……!)
「――そうそう、脱線しちゃいましたけど、お話って……?」
依里佳に促され、花菜実は気持ちを切り替える。表情を若干強張らせ、
「あの……依里佳さんは、水科さんご兄弟の生い立ちについてはご存知……ですよね?」
本題に切り込んだ。
「あぁ……お母さんのこととかですか?」
依里佳も声のトーンをわずかながら下げる。花菜実はこくん、とうなずいた。
「一応、篤樹から聞いてます。……花菜実先生もご存知なんですね?」
「はい……幸希さんから伺ったのですが……それって、本当のこと……なんですよね?」
「ですね、本当のことです」
「そうですか……」
やはり、あの日別荘で語ってくれた内容は嘘ではなかった。それが分かっただけでも精神的にだいぶ違う。花菜実は安堵のため息を漏らした。
彼女のそんな姿を見て、依里佳は薄く笑った。
「私……花菜実先生が私に何を求めているのか、分かった気がします」
花菜実は弾かれたように顔を上げる。
「――生い立ちのこと、幸希さんが“自分から”花菜実先生にお話ししたんですよね?」
花菜実はうなずく。これまでの間、幸希のプライベートに関する質問は、彼女からはほとんどしたことがなかった。花菜実が知っている情報は、ほぼすべて彼が自ら与えてくれたものだ。
「……じゃあ、花菜実先生は幸希さんの大切な女性なんですよ」
「そう……でしょうか」
「私も婚約するまでは自信がなくて、気持ち的にはいろいろありましたけど。でも今なら自信を持って言えます。……自分たちの人生を大きく変えてしまった出来事を、軽々しく他人に話すような人たちじゃないですよ、幸希さんも篤樹も。花菜実先生や私を大事な人だと思ってくれたからこそ、話してくれたんですよ。……花菜実先生もそう思いませんか?」
「……」
少しの沈黙の後、花菜実は再びうなずいた。
依里佳はしばらく考え込み、そして、うん、と一声出した。
「二日くらい前かなぁ。翔がね、家で『かなみせんせいがげんきなくて、おれかなしい』って言ってたんです」
「翔くんが……?」
花菜実が目を見張る。
「先生は『目にゴミが入ったから』って言ってたそうですけど、子供って敏感ですよね……何か感じたみたいで。……あの子ね、本当に花菜実先生のこと好きで。それはもう、私が妬いちゃうくらい。そんなわけで、花菜実先生には早く通常運転になってもらわないと、うちも困っちゃうんです。……だから、今から私が知っていることを話します」
「え……?」
彼女は何を知っているというのだろう。花菜実は首を傾げた。
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