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第34話
依里佳が居住まいを正すと、花菜実も釣られたように背筋を伸ばす。
「――この間、幸希さんから篤樹に『篤樹や依里佳さんの元に、織田花菜実さんに関する怪文書のようなものが送られてきたら、すぐに連絡してほしい』って電話が来たんです。どうやら、花菜実先生に関係していそうな人たちに、そういったものが送りつけられているみたいで。その事態を収拾するのに、幸希さん忙しくしていたらしいんですよ」
幸希は自分が思いつく、花菜実に関係するありとあらゆるところに連絡を取り、相手に協力を要請していたらしい。
「私に関する怪文書、って……」
花菜実は眉を寄せる。怪文書を作成出来るほど、自分は刺激的な人生など送って来なかったはずだ。大学時代のあの事件ですら、他人から見てみれば取るに足らない内容だろう。花菜実を貶めるほどの威力などありはしないが、今はそんなことはどうでもいい。
「私も詳しくは分かりませんけど、花菜実先生の名誉を著しく傷つける内容だったみたいです。もちろん捏造だと幸希さんは言ってたみたいですよ?」
問題は花菜実がそのことを微塵も知らなかったことだ。
「そんなこと……全然……知りませんでした」
突然聞かされたまさに寝耳に水な出来事に、花菜実は呆然と呟く。幸希もそんなことまったく話してくれなかったから。
彼女に関係するところに連絡をしたということは、彼はおそらく実家や幼稚園にもコンタクトを取ったはずだ。そう考えると、尚弥が酔っ払いながらも花菜実に電話をしてきたことや、園長が「身の回りで何か変わったことがあったか」という尋ね方をしてきたことにも説明がつく。
尚弥は事情をすべて把握した上で、あんなアプローチをしてきたのだろうし、園長も花菜実のことを心配して様子を探ってくれたのだろう。
「多分ですけど幸希さんは、花菜実先生に実害が及ぶ前に全部解決するつもりでいると思うんです。もしかしたらもう解決しているかも」
「……」
花菜実は震える口元を手で覆った。
「――でもね、私がもし花菜実先生の立場だったら、自分だけが蚊帳の外に置かれているのは我慢出来ないし、篤樹だけに負担をかけることもしたくないです。……花菜実先生だってそういう思いが根底にあるからこそ、こうして私を呼び出したんじゃないですか?」
確かにそうだ。花菜実はどうしても本当のことが知りたくて、その足がかりを依里佳に求めた。そして彼女が言うように、もしも幸希が花菜実のために仕事に支障をきたすほどの労を執っているのだとしたら、自分だけが知らないでいるのはつらいし、自分に出来ることなら何でもしたいと思う。
花菜実を巻き込む前に事態の収束を図る――彼女の知っている幸希なら、そうしてもおかしくはないし、きっとそれは本当のことなのだろう。何の根拠もないけれど、彼女は確信していた。
「っ、」
花菜実の双眸から涙がこぼれ落ちた。ぽろぽろとあふれ、そして彼女の膝に落ちていく。
自分のために奔走してくれているであろう幸希のことを考えると、胸が疼いて仕方がなくて。今すぐにでも、彼の胸に飛び込みたい衝動に駆られた。
依里佳が花菜実の隣に来て、彼女の背中を擦った。
「……好きな人のことは何でも知りたいし、支えたいって思いますもんね?」
依里佳の静かな問いに、花菜実は涙を拭い――そして、
「……はい」
しっかりとした声風で応えた。
「全部全部、無事に解決するといいですね、花菜実先生」
「あ、りがとう、ございます……依里佳、さん」
それからしばらくして。花菜実が落ち着いた頃、ふいに依里佳が笑みこぼした。
「ふふ、花菜実先生とこういう話をするようになるなんて、思わなかったなぁ」
「あ……そうです、ね」
「私ね、いつも幼稚園で花菜実先生を見るたびに『こういう可愛らしい女の子に生まれたかったなぁ』って、思ってたんですよ?」
「っ、」
花菜実は目を見開く。まさか依里佳がそんなことを思っていたなんて。思わず千里のことを思い出した。
「実は……私も、同じようなことを依里佳さんに思ってたことがあります」
千里や依里佳のような美貌を持っていたら、きっと人生はバラ色だったに違いない――ずっとずっとそう思っていた。けれど、どれだけ容姿に恵まれていても、皆それぞれ人知れず悩みを抱えているものなのだということを、ここ何週間かで花菜実は理解した。
「花菜実先生、もしよかったら友達になりましょう? 私、友達少ないので、なってくれると嬉しいです」
「喜んで。私も嬉しいです」
「ありがとう。友達のこと“先生”だとおかしいから、花菜実ちゃん、って呼んじゃおう。……っていうか、むしろ花菜実“お姉ちゃん”かな?」
「? どうしてですか?」
「だって、近い将来、私の義理のお姉さんになるかも知れないし?」
「えっ」
含み笑いながら依里佳が放った言葉の意味を把握した途端、花菜実の頬が染まる。
「あははは、照れてる花菜実先生可愛い~。……あ、花菜実お姉ちゃんか」
「もう、からかわないでください!」
花菜実が依里佳の肩をバシバシと叩く。
「あ、そうそう。聞こうと思ってたことがあって。花菜実ちゃんのお兄さんって、私と同じ会社にいるって聞いたんだけど、もしかして、技術研究所の織田尚弥さん?」
「あ、そうです。それ兄です」
「やっぱり? うちの職場でもすごく人気あるんだよ、イケメンだしね。……でもこうして見ると、やっぱり兄妹、似てるね?」
「えぇ!?」
今まで一度もそんなことを言われたことがなかったので、心底びっくりした。
「目元とか似てるよ~。言われない?」
「初めて言われました……」
驚きを隠せない花菜実に、依里佳はまた笑う。
「今回の件が解決したら、また改めて一緒にご飯でも食べに行こう? もっと楽しいお話いっぱいしたいし……花菜実ちゃんと幸希さんのお話も聞きたいし」
「はい、是非行きたいです。私も依里佳さんたちのお話聞きたいです」
花菜実も釣られて笑った。
食事に行く約束をして依里佳と別れた後、花菜実は自宅へと帰り、食事や入浴などを済ませた。
そしてソファへ座り、ローテーブルの上に置いてある幸希の名刺を手に取った。裏に書かれている文字列を見つめる。
「前の番号から電話が来たということは、もしかしてメッセージもこっちのIDをまだ使っているのかも……」
メッセージアプリにIDを打ち込み、『今、電話してもいいですか?』という文言を送ってみた。
送信後一分ほど経つと、電話の着信音が鳴った。ビクリと身体が揺れたが、今度はちゃんと応答した。少しだけ手が震えた。
「もしもし……」
『花菜実……?』
「は、はい」
『……やっと話せた』
心臓が早鐘を打ち、痛くなる。この上なく緊張している自分がいるけれど、何とか言葉を絞り出した。
「一昨日は……すみませんでした。電話、切っちゃって……」
『いいんだ。何故かは大体分かっているから』
そう言う幸希の声音はとても穏やかだ。
「あの、私……会ってお話ししたいことがあるんです」
『僕もだ。今度の土曜日の午後に会える?』
「はい、大丈夫です」
『じゃあ三時に『オルジュ』まで来てくれるか。店は昼休みだけど、入れるようにしておく』
「『オルジュ』……ですか?」
『そう。……一人で来られる?』
「子供じゃないんですから」
クスリと笑みが漏れた。
初めて二人で出かけた時に食事をした店――そこに呼び出した彼の意図はまだ分からないけれど、とにかく言われた通りにしようと思う。
『そうだな。……いろいろ話したいことがあるけど、土曜日までは我慢しておく』
電話の向こうで、大きく息をつくのが聞こえた。多分、話したいことを飲み込んで堪えたのだろうと花菜実は思った。
(あ、そうだ……)
一つだけ、確認しておかなければならないことがある。
「幸希さん。電話番号とメッセージアプリのIDは……以前のままでいいんです……よね?」
『うん。そのことについても、土曜日に全部話すから』
「分かりました。……じゃあ、土曜日に」
電話を切ると、花菜実も大きく息を吐き出した。
ここ何日ももやもやしてきた気持ちが、ようやく晴れそうだ。依里佳はああいう風に言ってくれたけれど、もしかしたら望む通りの結果にはならないかも知れない。
けれど、本当のことが知りたい気持ちの方が大きかった。
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