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第35話
『オルジュ』の扉には『CLOSED』のプレートがかけられていた。花菜実は一瞬躊躇うが、そっとドアを開いた。
中に入ってすぐのカウンターに、白いワイシャツに黒ベストとスラックスを身に着けた着た男性が立っており、すぐに花菜実を認めると、
「織田様ですね、いらっしゃいませ。ご案内します。こちらへどうぞ」
ニッコリと笑ってエスコートしてくれた。店内を奥に向かって歩いて行くと、最奥にある重厚なたたずまいの扉が開けられ、入るように促された。
「こちらです、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
おずおずと中へ足を踏み入れ辺りを見回すと、同じ『オルジュ』でも、通常店舗よりも数段ランクの高いインテリアが置かれていた。おそらくここはVIP用の個室なのだと、花菜実にもすぐに分かった。
(ちゃんとした服で来てよかった……)
場所が場所だけにカジュアルで赴くにははばかられたので、コートの下はブラウスとスカートとブーツを身に着けて来た。
「花菜実」
部屋の中央に置かれたテーブルの向こう側に、幸希が座っていた。久しぶりに見る彼は笑っていたけれど、ほんの少しだけやせている気がした。
そして、幸希の前には三人の男女が入り口に背を向けて座っている。
(誰……?)
「花菜実、僕の隣に」
幸希が立ち上がり、隣の椅子を引く。花菜実は会釈をし、そこに腰を下ろした。座って改めて顔を上げた瞬間、花菜実は驚愕した。
「あ……」
心臓が逸り始める。
そこにいたのは、長崎千賀子、浜島茉莉、そして――
「か、川越先輩……?」
茉莉の隣に座っていたのは、紛うことなき川越裕介だった。大学時代、花菜実の気持ちを弄んだ男――五年振りの再会だった。彼のことが好きだった当時は誰よりもかっこよく見えた面差しだが、今となっては色褪せて見えてしまう。それもそうだろう、どうしたって幸希や尚弥には及ぶべくもないから。
目の前に座っている千賀子と茉莉は、花菜実を見てもせせら笑うこともあげつらうこともせずに黙っている。それどころか、裕介も含めた三人とも一様に顔色が悪いようにすら見えた。
彼らの傍らには、若干強面のブラックスーツの男が立っている。幸希が言うには、彼は水科家の運転手とのことだ。
「花菜実、彼らがいて落ち着かないだろうが、少しだけ我慢してくれるか」
幸希が安心させるように眉尻を下げる。花菜実は三人を不安げに見て、
「あの……どうして、この人たちがここに……」
そう尋ねた。
「今回の一連の件を仕組んだのが、この三人だからだ」
一連の件――そう言われても、花菜実には何が何だかさっぱり分からない。彼女が知っているのは、自分に幸希の写真や音声ファイルが送られてきたこと、そして依里佳が話してくれたことくらいだ。
「幸希さん……そもそも一体、何が起こったんですか? この人たちは何をしたんですか?」
「ざっくり言うと、ひどく手間隙かけた嫌がらせ、というところだな。まぁやったことは立派な犯罪だが」
「犯罪……」
その言葉に寒気が背中を駆け抜ける。
「まずは花菜実、君がこの間僕からの電話をすぐに切ってしまったのは、これのせいだな?」
幸希がテーブルの上に写真を広げた。さながらカードマジックのスプレッドのような滑らかさで、次々と彼女の目の前に被写体が現れた。
「あ……」
花菜実が受け取った写真と同じものがすべて揃っていた。どうして幸希がそれを持っているのだろう。思わず目で訴えると、
「初めに言っておくけど、これは全部捏造だから」
幸希が強い不快感を孕んだ表情で吐き出した。
「ね、つぞう……?」
「こっちが本当の写真だ」
幸希は出された写真をしまい、今度は別なものを同じように広げた。それを見て花菜実は目を剥いた。先ほどの写真とまったく同じ構図のものだが、男の顔の部分だけが幸希ではなく、別人だったからだ。
「これ……川越先輩……?」
写真の被写体と目の前にいる人物を見比べてみる――それは間違いなく裕介だった。ホテルに入って行ったのも、キスをしているのも、裸で女性と抱き合っているのも、だ。
そして、肝心の幸希の顔はどこから持ってきたのかと言えば――
「なっ、こっ、こ、これ……!!」
花菜実は顔を真っ赤にして残りの写真を見る。それは幸希と花菜実の写真だった。しかも普通のものではなく――彼が幼稚園へ来た日に帰り道でキスをされた瞬間のもの、イタリア料理レストランでベタベタされた時のもの、そして水族館で深くくちづけられた時のものだ。
「興信所の人間が撮ったものらしい。さすがによく撮れているな。せっかくだから貰っておこうと思う」
「い、いらないです! いりませんから!」
花菜実は慌てながら勢いよく首を振り、写真を隠そうとするが、その前に幸希に取り上げられてしまった。
「僕はいる。せっかくわざと撮らせてやったんだから、これくらい貰っておかないと割に合わない」
「……え? わ、わざと……?」
幸希の発言に、花菜実は情けなく眉尻を下げた。
「僕が幼稚園に行った日、誰かが僕たちの後をつけて写真を撮っていることに気がついたんだ。だから相手の意図が知りたくて、わざと花菜実にくっついたりキスをしたりしていた」
「えぇっ」
あのバカップルライク且つ一方的なイチャイチャが、特定単数に見せつけるためだけの行為だったとは。予想もしていなかった幸希の発言に、困惑を隠せない花菜実。
「ただ、それが今回の捏造写真に使われるなんて予想出来なかった。そこは完全に僕の落ち度だ。すまない、花菜実」
「……じ、じゃあ、あの音声ファイルは?」
「もちろん、あれも捏造だ」
「え、でもあれは幸希さんの声でした……! それに、話してる内容だって……」
花菜実の部屋で話したことをネタにされていて、それが余計に彼女の胸に突き刺さったことを覚えている。
「では、これを聞いてみてくれるか」
幸希がスマートフォンの音声再生アプリを起動した。
『悪人? 人聞きの悪いことを言うな。……騙される方が悪いんだ』
『まぁ、クリスマスまでの暇つぶし、というところだな』
『まだ。向こうは盛りがつき始めてる感じだけどな。この間も部屋に泊まっていけ、と誘われた』
「え、これ……」
花菜実の元に送られてきた音声ファイルと文言は同じものだった。けれど、声が――幸希とはまったく違っていた。声域で言うと幸希はバリトン中のバリトンだが、今聴いたのは間違いなくテノール、つまりは幸希よりも高い声だった。
「この声、聞き覚えないか? 花菜実」
「……あ、もしかして……これも、川越先輩……?」
「そう、これが元の音源。写真も音声も全部、この川越裕介が加工したものだ。この男はCG制作会社で働いているから、そういったことなどお手の物なんだろう」
曰く、裕介が勤務しているCG制作会社は規模は大きくないものの、かつてはハリウッド映画の下請けもしていた。今は主に邦画の仕事を請け負っているらしいが、そんな環境にいる裕介なら、写真を精巧に加工することも、音声をそれらしく変換することもさほど困難な作業ではないだろう。
ホテルやベッドでの写真は、裕介がナンパした女性を連れ込んで撮影されたものだそうだ。その写真の一部に千賀子の顔をはめ込み、幸希の被害者の一人として仕立て上げることで、花菜実がより信じ込みやすいよう仕組んだというわけだ。
「そうだったんですか……」
「僕たちしか知らない内容がこの音声に含まれていたのは、二人の会話が盗聴されていたからなんだ」
「盗聴!?」
「僕のスーツの襟に盗聴器がしかけられていて、僕としたことがしばらく気づかなかった。これもまた大失態だ」
今はある程度の金額を出せば、素人でさえそこそこの性能を持つ音声変換ソフトが手に入り、それを使えば簡単に人の声を変えることが出来る。参考にしたい声の持ち主のサンプルと、実際に喋らせたい文言を別人の音声で用意する。それらを入力、分析変換し、出力する。裕介はそのような手順で幸希に似せた音声を作ったそうだ。
彼と花菜実の会話を盗聴していたのは、幸希の声のサンプル採取も目的だったらしい。
そうして作った幸希の音声と相手役を演じた茉莉の声を、さも会話をしているように編集をし、その際わざとノイズを乗せた。そうすることで、合成音声の粗をごまかしていたそうだ。
しかも祐介自身、学生時代からものまねが得意だったので、幸希の話し方を真似るのもそう難しいことではなかったそうで。
えらく手の込んだやり方に、幸希は半ば感心していた。
「……でもこれで、僕が花菜実を裏切っていないことが分かってもらえたと思う」
「は、はい……」
花菜実の胸に安堵が降りてきた。まだすべてがクリアになったわけではない。けれど、幸希が彼女を裏切ってはいなかったと分かっただけでも、全身が温かいものに包まれたような気持ちになる。
「実は、僕のところにも送られてきたんだ……花菜実の写真が」
「私の写真……? どういう?」
「多分、花菜実は見たくないと思うから見せないが、まぁ、これと似たような合成写真だ」
幸希の今の言葉と、依里佳から聞いていた『花菜実の名誉を著しく傷つける』という言葉で、大体予想がついた。
花菜実の元に幸希のあらぬ姿の写真が送られてきたということは、幸希の元には彼女のそれが送りつけられたということで。
(そ、そんなの見たくない……っ)
自分のあられもない姿の合成写真だなんて、想像しただけでゾッとするし気分がよくない。しかもそれを幸希に見られただなんて……。
嫌悪感だとか羞恥心だとか、いろんな感情が入り乱れて心が混乱する。そんな彼女の複雑な気持ちを汲んでくれたのか、
「大丈夫だ、捏造だってすぐに分かったから」
幸希が優しく花菜実の頭をなでた。
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