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第40話
それからは彼らに混ざり、自己紹介を交えた談笑をして。嘉紀から馴れ初めを聞かれたが、花菜実ですらいまいち分かっていなかったので、
「実はよく分からないのですが……幼稚園の前で話しかけられました」
そう答えると、篤樹がいきなり大声を上げた。
「あぁ! そっか、だから兄貴、翔の運動会に行きたいなんて言い出したんだな? 変だとは思ってたけど、花菜実先生目当てだったのかよ!」
「今頃気づいたのか、篤樹」
幸希がクスリと笑った。
「え、そうだったんですか?」
花菜実が尋ねると、
「それ以外にどんな理由があると思う?」
当然のようにそう答えた。
「翔に誕生日プレゼントを持って来たのも、選んでもらうという名目で花菜実先生をデートに誘ったんだな。彼女に近づくために翔をダシにした、と」
「それに関しては篤樹は人のこと言えないからね」
依里佳が苦笑した。
「ただいまぁ~。ねぇ、あっくんの車が外にあったけど、来てるの~?」
バタン、といきなり客間の扉が開いた。
そこに現れたのは、長い黒髪を緩めに巻いて、それをツインテールにした美少女だった。中高生に人気のあるファッションブランドの可愛らしいワンピースに、ファーつきのショートブーツは、彼女の愛らしさを十二分に引き出している。背はスラリとしていておそらく花菜実より高いだろう。
(わぁ……可愛い子)
「咲、ちゃんとノックしてから入りなさい」
百合子が眉をひそめながら諌める。幸希の妹の咲が、ペロリと舌を出した。
「はぁい。も~、あっくんってば、どうして依里佳お姉様と一緒に来る時、ちゃんと前もって教えてくれないの? いつも言ってるじゃない!」
咲が両のこぶしを上下に揺らし、篤樹を責める。
「おまえが何か悪巧みするかも知れないからだよ」
「そんなことしないもん! ねぇ? 依里佳お姉様?」
「そうだよね、ちゃんといい子にしてるよね?」
ふふふ、と依里佳が笑う。
「……あ、依里佳お姉様、左の薬指に指輪してる! もしかして結婚決まったの!?」
「うん、おかげさまで」
「きゃ~! 遂に依里佳お姉様が私の本当にお姉様になるんですね! 嬉しい!」
ピョンピョン飛び跳ねる咲が、次に目を留めたのは――
「あ、お兄ちゃん! 最近お兄ちゃん忙しいって言って全然家にいないんだもん! あたし淋しかったんだからね? いつもどこに行ってたの?」
そう言って、咲は座っている幸希に抱きつく。
「咲、苦しいから離せ」
幸希はこともなげな様子で咲をいなす。それから、隣にいる花菜実の手の上に自分のそれを重ねて、ぎゅっと握った。
「も~、お兄ちゃんはいつもそうやってはぐらかすんだから。……ん? 隣にいるの、だぁれ?」
咲は遂に花菜実の姿を認めたのか、小首をちょこんと傾げ、幸希に尋ねる。彼はまたしても平然とした表情で、
「僕の婚約者」
と、言い放った。
(あ、またそういう……!)
花菜実は一瞬、反論しそうになったが、さすがにこれ以上醜態を見せてはならないと、ぐっとこらえて無言を貫いた。
カラフルなキャンディのような、ポップな雰囲気を醸していた咲の様子が一変した。一気に空気が重くなり、室内が肌寒くすら感じられた。
それを見た篤樹は、
「やば……」
口元を引きつらせながら、小声で口走った。
「こ、んやく……しゃ? ……お兄ちゃん、この人と結婚するの?」
「そのつもりだけど」
「……おつきあい、してるの?」
「してるから結婚するんだろう?」
「ふーん……」
「咲、やめなさい」
百合子の静止も聞かず、咲は幸希の前を通り、彼と花菜実の間に身体をねじ込んでソファに座った。
「咲、やめろ」
幸希が咲の身体をどけようとするが、彼に背を向けて動こうともしない。彼女の全神経は今、花菜実に集中しているようだった。
「へぇ……なぁんか、今までの彼女と違うねぇ……?」
冷たく細められた咲の目は、花菜実を舐めるように捉えていた。彼女はその視線を避けるように、うつむいたまま黙り込んでいる。
「今まではさぁ、もっと大人っぽくてきれいな人とつきあってたよねぇ? ねぇ? お兄ちゃん」
その言葉はさすがに聞き捨てならないと感じたのだろう。幸希は声を荒らげる。
「咲! それ以上言ったら、たとえ咲でも許さな――」
「幸希さん」
幸希の声に、花菜実が言葉を重ねた。見ると、花菜実が柔らかい笑みでかぶりを振っていた、その表情には、
(大丈夫ですから)
という意思が込められていた。
「花菜実……」
花菜実が一体、どんなリアクションに出るのか想像も出来ないのだろう、幸希は息を呑んだ。
咲は未だに花菜実に鋭い目線を留めたままだ。しかしそんな洗礼など気にも留めず、花菜実はニコッと笑う。
「初めまして、織田花菜実です。……お名前、聞かせてもらっていいかな?」
「っ、」
いつもよりワントーン高くなった声で自己紹介する花菜実に、目を見開く咲。数瞬の後、生唾を飲み込む音が聞こえたかと思うと、
「み、水科、咲……」
咲が途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「咲ちゃんかぁ~。可愛くて、あなたにぴったりの名前だね」
さらに笑みを深くする花菜実に、何故か頬を染める咲。目はキョロキョロと泳いでいる。そんな彼女の顔を、花菜実は容赦なく覗き込んで、
「咲ちゃんはいくつなのかな? 何年生?」
その瞳を捉えたまま、質問を続ける。
「十四歳……中二……」
「そっか、中二かぁ。学校は楽しい?」
こくん、とうなずく咲。
「学校が楽しいのは何よりだね~。お勉強では何が好き?」
「英語……」
そこにはすでに花菜実を嘲罵しようとする咲の姿はなかった。行儀よく足を揃え、その上に両手を置き、肩をすくめ、上目遣いで花菜実のことをおずおずと見つめている少女がいるのみだ。
「そっか、英語かぁ。私もね、英語好きだよ! おばあちゃんがね、カナダ人なの。だからいっぱい英語教わったんだ! お兄ちゃんのことは好き?」
「うん……」
「優しいお兄ちゃんだもんね、仲良くていいね。……あ、そうだ。お名前、咲ちゃん、って呼んでいいかな?」
「うん……」
「咲ちゃんは、私のこと、何て呼んでくれるかな? 何でもいいよ?」
花菜実の言葉に、咲は目を泳がせ逡巡する。少しして、
「……なみちゃん」
照れたようにポツリと呟いた。それを受けた花菜実は嬉しそうに、
「なみちゃんかぁ~。今まで誰にもそう呼んでもらったことないや。咲ちゃんだけの呼び名だね。ありがとう、何だか嬉しいなぁ。よろしくね、咲ちゃん」
と、咲の頭をいいこいいことなでた。
「咲がおとなしくなってる……」
幸希が目を見開き、呆然と呟いた。彼だけではない、その場にいた誰もが、花菜実と咲のやりとりを目の当たりにし、本日二度目の『ポカンと口を開いた状態』に陥っていた。
篤樹は眉宇を歪めて、
「何だよこれ……催眠術にでもかかったのか……?」
吐き捨てるように呟いた。
「もしかして、これが“花菜実先生”の力?」
依里佳がボソリと言う。曰く、花菜実は園児たちからとても人気があるそうだ。幼稚園の先生ともなれば園児に普通に好かれることは珍しくも何ともない。しかしこと花菜実に関してはその好かれ度合がはんぱなく、気難しい子供も彼女の手にかかればイチコロなんだそうだ。
昔から親戚の子供に好かれて囲まれていたのも、彼女の生まれ持った資質によるものだった。
保護者の間でもその噂がまことしやかに囁かれており、彼女に子供を見てほしいと願う父兄もいるそうだ。
「あらあら、すごいわねぇ。あの咲が借りてきた猫みたいになっちゃって」
「幼稚園の先生になるべくしてなった、という感じだね」
水科夫妻が感心したようにうなずいた。
「猛獣使いだ」
「猛獣って、咲ちゃんに失礼でしょ」
依里佳が篤樹に肘鉄をする。
「花菜実、すごいな」
感嘆の言葉を紡ぐ幸希に、花菜実はニコリと笑う。
「だから言ったでしょう? 『子供が私を好きですよ』って」
『子供に好かれる以外、これと言って取り柄がない』と常々自称してきた花菜実。その『子供に好かれる=子供を手懐ける』能力が、彼女の唯一、且つ最大の才能だったということは、この後水科家での語り草になったという。
「ネコにマタタビ、咲に花菜実だな」
幸希が笑いながら言った。
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