第42話

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第42話

 今度は花菜実がポカンと口を開く番だった。そして数瞬の後、ボッと頬を紅潮させ、 「そんな……は、初恋って……」  少しの疑いを滲ませた視線で幸希を捉えた。 「初めて自分から女性を好きになった、というのは初恋とは呼ばないのか?」 「でも……今まで彼女とかいたんですよね?」  花菜実は首を傾げる。 「彼女たちには申し訳ないが、さほど好きではなかったんだろうなぁ、今になって考えてみると」 「そう……なんですか……」 「あの日……野上さんとの話が終わって、厨房から出て来た時に、花菜実たちの話が聞こえて、それでますます花菜実が欲しいと思った」 「話……?」  花菜実はあの日のことを記憶を振り絞って思い出した。確かちなみと結婚感の話をしていたはずだ。 『私は普通の結婚がいいなぁ』 『普通の定義は人によって違うよ、花菜実』 『教会とか神社で家族と仲のいい友達だけで結婚式したい』 『それいいね、私もそうしたいな』 『住む場所はあまりにオンボロじゃなければ、1LDKのアパートでもいいや。その方が旦那さんと距離が近いままでいられるし』 『そういえばさ、高校の時に花菜実「結婚したら旦那さんに毎日デコ弁作ってあげたい」って言ってたよね?』 『あー……言ってたかも。でもこうして社会人になってみると、そんな時間ないよねぇ。でも毎日お弁当は作ってあげたいな。外で食べてばかりだと栄養偏っちゃうし』 『だよねぇ』 『ちなみは新婚旅行、どこに行きたい?』 『ん~……暖かいとこがいいなぁ。沖縄とかハワイとか。花菜実は?』 『私、結婚式は地味でいいんだけど、新婚旅行はちょっと贅沢したいな。スイーツ美味しい沢山のお店に行って、めいっぱい食べ歩きするの。……それって、贅沢な時間の使い方じゃない?』 『じゃあ、フランスとか?』 『いやぁ……フランスまで行かなくてもいいよ。アジアがいいな、近いし。タイとか台湾とか、スイーツ美味しいの沢山あるし。……あ、でも台湾は行ったことあるから、タイかシンガポールかなぁ』 『花菜実らしいなぁ。っていうか私もそうしたい』 『でしょでしょ? むしろ新婚旅行じゃなくて、ちなみと行きたいかも』  その会話を図らずも立ち聞きした幸希は、さらに驚いたそうだ。  今までつきあってきた女性はしてもらうことばかり主張し、自分がしてあげたい、と言ってくれることはなかった。  おまけに、  結婚式は東京の高級ホテルで――  新婚旅行はヨーロッパ一周で――  新居は桜浜の夜景がきれいなマンションで――  幸希が結婚の『け』の字も出していないのに、自分勝手に結婚の予定を語っていたらしい。  そんな女性とばかりつきあっていたためか、花菜実とちなみの話はとても新鮮だったそうだ。 「どうしても花菜実と近づきたくて、野上さんにちなみさんを紹介してもらって、花菜実のことを相談していた」 「え? ちなみと知り合いだったんですか? 幸希さん」 「花菜実が『オルジュ』のケーキを食べたがっていたことも、ちなみさんから聞いたんだ」  オルジュのことを出せば花菜実は絶対に食いついてくると、ちなみから聞いていたので、その情報を遠慮なく使わせてもらったらしい。 (ちなみ……そんなことひとことも言わなかった……!)  花菜実は歯噛みするが、結局は自分が野上に散々ちなみの情報を横流ししていたことを、そっくりそのままされていたというわけで。 (今度紹介してね、なんて、とぼけちゃって、ちなみはぁ……)  花菜実は苦笑する。 「ちなみさんから花菜実のことを聞いている内に、花菜実が翔くんの担任の先生だということも分かって。しかも運動会があるということも教えてくれた。で、篤樹経由で依里佳さんに頼んで一緒に観覧させてもらったんだ。運動会での花菜実を見てますます好きになって、いてもたってもいられずに、幼稚園まで押しかけてしまった。後は花菜実も知っている通りだ」  幸希と過ごすようになってからも、花菜実は贅沢なことをねだったりせず、食事もいつも、 『私が割り勘で払えるレベルのお店じゃないと、行きません。それが嫌なら、もう私のことは誘わないでください』  と、頑なに言い張っていた。そんなところもまた幸希を惹きつけて止まなかったらしい。 「そういう頑固なところも、すごく可愛いと思った」  そんなことを言うものだから、花菜実は口元を引きつらせ、 (この人の嗜好って大丈夫かしら?)  と、彼のことを少し心配してしまったほどだ。 「花菜実をどんどん好きになっていって、気づいたことがある。皮肉なことに、僕は、あれだけ違和を感じていた彼女たちと同じことを、今考えてるんだ。花菜実と結婚したらああしたい、こうしたい、って。毎晩花菜実を抱きしめて眠りたいし、花菜実が作った弁当を持って会社へ行きたいし。……何よりも、花菜実のウェディングドレス姿がすごく見たい。それに、新婚旅行では花菜実に好きなだけケーキ屋巡りをさせてやりたいし、その姿を全部写真に収めたい――」  そこまで言って、幸希は花菜実を抱きしめる。 「――とにかく、花菜実とずっと一緒にいたいんだ」  そう、彼女の耳元で囁いた。  真裸な愛情をストレートに寄せられ、花菜実の心臓がきゅっと切なく疼いた。幸希がくれるすべての言葉が嬉しくてたまらない。  おずおずと広い背中に腕を回し、 「私も……幸希さんとずっと、一緒にいたいです……好きです」  幸希の気持ちに応えるように、ぎこちなく告げた。 「花菜実……そろそろ敬語はやめてくれないか?」 「え?」 「あと、初めてデートした時から言ってたけど『幸希』でいいから」  いきなりそんなことを言われて、すぐさま切り替えるなんて、花菜実には出来そうにない。 「そんな……急には無理、です」 「じゃあ名前はおいおい呼んでもらうとして、敬語はやめよう」 「えーっと……じゃあ、少しずつ、直します」  幸希は花菜実を解放し、手を取る。 「……花菜実、今夜は僕とずっと一緒にいてくれる?」  弾かれるように見上げると、きわめて真摯な表情で見つめられていて。離れたくないと思ってくれているのが見て取れた。  その気持ちは花菜実も一緒だったから。 「……はい」  わずかに頬を染めて、彼女はうなずいた。 「あら幸希、この後、依里佳ちゃんと篤樹も一緒に夕飯をいただくんだけど、花菜実ちゃんと幸希もどう?」  手を繋いで階下の客間に戻ると、百合子が二人の姿を見て尋ねた。 「残念だけど、僕たちは遠慮しておくよ。今日はマンションに泊まるから」 その言葉と同時に、幸希は花菜実の手を握る力を強めた。 「あらそう……残念ね」 「えぇー……お兄ちゃんもなみちゃんも、行っちゃうのぉ? 一緒にごはん食べようよぉ~」  咲が頬を膨らませる。 「また今度な」 「咲、邪魔するなよ。兄貴は早く花菜実先生と二人きりになりたいんだよ。……な?」  篤樹が首を逸らせてニヤニヤと二人を見る。 「そういうこと」  しれっとした表情で吐き捨て、幸希は花菜実の手を引いて客間を後にする。 「あ、お、お邪魔しました!」  花菜実は慌てて深々と頭を下げた。 「ちょ、幸希さん! 挨拶くらい、ちゃんとさせてください!」 「ちゃんとしたじゃないか。大丈夫だよ」  幸希の後ろから花菜実が抗議をする。以前、曜一朗と一緒にいるところに出くわした時と同じだと、内心呆れる。けれど当の本人は意に介さず、笑って車の助手席のドアを開けた。
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