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第43話
「何なんですか、この眺めは! これが人の住むところですか? ホテルじゃないんですか? 素晴らしいにもほどがあるんですが!」
花菜実が大きな掃き出し窓に張りつき、驚きの声を上げる。とても恋人のマンションに初めて招待された女子の言葉とは思えない、色気の欠片もないおたけびである。けれど背中からは見ている景色に感動しているのが見て取れる。
わぁ、すごい。
チカチカしてる。
昼間は忙しなく見えるのに、同じ光景が夜だとどうしてこんなにきれいなの?
――そんなひとりごともすべて幸希に伝わっていた。彼は彼女の後ろでクスクスと笑っている。
「花菜実のそういうところも、すごく可愛くて好きだよ」
「だ、だって……! 毎日こんな景色を見て暮らしてたら、夜景デートなんて何のありがたみもなくなっちゃう!」
ヤモリよろしくガラスに貼りついたまま、首だけで振り返り、目を見開いて力説する花菜実。
「毎日は暮らしてないから。仕事が忙しくて遅くなった時だけ、ここに泊まってる」
「セカンドハウスということですか? 何というもったいないことを……!」
「あははは、住むべきなのか住むべきじゃないのか、結局どっちなんだ、花菜実」
水科家を出た花菜実と幸希は、彼の車で桜浜へと戻った。駅の近くにある海に面した商業地帯の真ん中にそびえ立つタワーマンション、そこに幸希の部屋があった。三十階建てで、下から数階は有名企業のオフィスが入居しているのだが、幸希の職場もそこにある。
普段は実家から電車で通勤しているが、通勤時間が一時間以上かかるため、仕事で遅くなった時のために上層の分譲マンションを購入したそうだ。
二人が乗った車は地下の入居者用駐車場へ駐車され、彼らはそこから中へ入りコンシェルジュを通った。エレベータホールに立ち入るのでさえ入居者用のカードキーが必要だと知り、花菜実は目が回りそうだった。
そうして二十九階へと上がると、そこには見るからに高級なフロアが広がっていた。絨毯敷きの廊下をしばらく行った角部屋が、幸希の住まいだった。
玄関を入り、幸希に指示された通り右のつきあたりまで行くとそこには広々としたリビングダイニングがあった。壁一面が窓となっており、その外側は桜浜の商業地区と海が一望出来た。
「本当は一番上のペントハウスが欲しかったんだけど、そこはこのマンションのオーナーの所有らしくて、非売階だったんだ」
「ペントハウスなんて贅沢のきわみじゃないですか」
「僕は普段あまり金を使わないから、こういう時くらい日本経済に寄与しないと」
確かに幸希は、花菜実と一緒にいる時は一般人程度の金の使い方しかしない。出し惜しみなどはまったくしないが、金にものを言わせるようなことは絶対にしない。
ずっと花菜実の庶民レベルに合わせてくれていたのかと思っていたが、ひょっとしたら普段からそうなのだろうか。
(――いやいや、さっきのお金の使い方は尋常じゃなかった!)
部屋に来る前、
『花菜実が泊まるのに部屋に何も用意していないから、いろいろ買いに行こう』
と、ショッピングモールに連れて行かれた。要は、パジャマや着替えなどを調達しよう、ということだ。
『あ……下着とパジャマだけ自分で買いますから』
ファストファッションの店でちゃっちゃと買ってしまおうと、遠慮がちに言ってはみたものの、
『これからも週末には泊まることになると思うから、花菜実の生活用品を一通り揃えておいた方がいい』
と、花菜実の言うことなど聞かずに、人気ブランドのショップへと連れて行かれ、店員を巻き込んであれやこれやと選びだした。一旦は拒否したものの、
『結婚については花菜実の言う通り、もう少し時期を考えることにするから、これくらいは僕の好きにさせてくれないか?』
目尻を下げてそう懇願されてしまっては、それ以上異議を唱えることも出来ず、もう好きにさせようと諦めた。
そうして服、下着、パジャマ、化粧品などを一通り買い込んだ後、夕食を調達し、部屋に来たというわけだ。
外はもう真っ暗で、夜ならではのきらびやかな景色が広がっている。
「花菜実、夜景はその辺にして、夕飯を食べないか?」
窓に釘づけになっていた花菜実に、幸希が声をかけた。手にしていた袋から中華のテイクアウト食材を出し、ダイニングテーブルに並べている。
「あ、はい」
花菜実は慌てて駆け寄り、幸希を手伝った。
「花菜実、ケーキを食べるつもりなら、夕飯はほどほどにしておいた方がいいんじゃないか?」
オルジェから持ち帰ったケーキの半分は水科家へ置いてきたが、半分はこの部屋に持ち込んだ。冷蔵庫の中で花菜実のことを待ち構えている状態だ。
二人の取り皿それぞれにチャーハンを普通によそおうとした花菜実に、幸希がケーキの存在を知らせた。
「あ、そうですよね……二つくらいは食べたいし……ちょっとセーブしますね」
花菜実は笑いながら自分のチャーハンを半分に減らした。
幸希のお陰で、今回も満腹にならずにケーキまで辿り着くことが出来た。
「花菜実がケーキを食べている時の顔がすごく好きだ」
「な、何ですか? いきなり……っていうか、何、撮ってるんですか!」
幸希の言葉に、フォークを持つ花菜実の手が止まった。見ると、彼がスマホを向けていて、彼女がケーキを頬張る姿を撮影していた。
「動画じゃないから、写真だけだから」
「食べてるところを撮るなんて、失礼ですし、お行儀悪いですよ」
「『大事の前の小事』って言うだろう?」
花菜実がくちびるを尖らせると、幸希がクスリと笑う。
「それ、使い方間違ってませんか? っていうか、仮にこれが『小事』だとして、『大事』は何なんですか?」
「この部屋に花菜実の存在を刻むこと……かな」
「? 意味分かりません」
幸希が何を言いたいのか分からず、花菜実はフォークを手にしたまま首を傾げた。
「今まで、ここは僕ですらそれほど来なかったから、生活感もない、風呂に入って寝るだけのただただ無味無臭な場所だった。けれど、これからはそうじゃない。花菜実がここにいてくれるだけで、温かくて居心地のいい部屋になる。今日買った服や化粧品をここに置いておくことも、今撮った写真を飾ることも、花菜実の存在をこの部屋に浸透させることの一端だと思ってくれたらいい」
「……今までの彼女は、ここに来たこと、ないんですか?」
聞きづらいことではあったけれど、小声で尋ねてみる。
「ない。僕は今までつきあってきた女性をプライベートエリアに入れたことはないよ。ここに来た女性は、母や咲以外では花菜実が初めてだ」
これが嘘偽りのない真実であることは、花菜実にはよく分かっていた。全身が歓喜で震えそうになり、思わずはにかむ。
「……何だか、私が特別みたいで嬉しいです」
「“みたい”じゃない、特別なんだ」
幸希はそう言って、花菜実を愛おしげに見つめた。彼女はほんのりと頬を染め、目を泳がせる。そして思い立ったように切り出した。
「……あ、そういえば、お風呂沸かしましょうか?」
「あぁ、僕がやってくる」
腰を上げた花菜実を手で制し、幸希が立ち上がる。
「私、やりますよ?」
花菜実の部屋の浴室は追い焚きなど出来ないユニットバスだが、実家のものは風呂好きの父親がこだわった広さがあり、ゆったりと入ることが出来る。当然追い焚きも出来るし、ジャグジー機能もついていた。
いくらここが高級マンションでも、浴室の機能は一般の家とそれほど差があるとは思えない。だから自分でも準備は出来るだろうと、花菜実は申し出たのだが。
「花菜実、今後のためにもあんまり僕を甘やかさない方がいい。何も出来ない男とつきあいたいのなら、話は別だけど」
笑って言い残し、幸希はリビングを出てバスルームに向かった。
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