第44話

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第44話

 花菜実がケーキを食べ終わる頃、ちょうど風呂が沸いた。幸希に促されて先に入浴し、買ったばかりのパジャマを着て、買ったばかりの基礎化粧品を使い、買ったばかりの歯ブラシで歯を磨いた。  すっかり気が抜けていた花菜実は、ここが幸希の部屋であることを一瞬忘れていた。  浴室を一歩出た瞬間、頭から抜け落ちていたことすべてがぶわっとよみがえり、湯上がりで火照っていた頬がますます熱くなった。  まず、すっぴんで幸希の前に出るのは初めてだということ。 (……ま、いっか)  普段からそれほど気合いの入った化粧をしているわけではないので、すっぴんを見られてもさほど困りはしない。幼稚園にいる時などはノーメイクに近い顔で過ごしているのだから。  それに泣き腫らした顔なども散々見せてきたので、今さら素顔を見せたところで、落胆されることもないだろうと、花菜実は開き直った。 「あの、お先にお風呂いただきました……」  リビングに戻った花菜実の姿を見て、幸希はわずかに目を丸くする。 「……何だか素顔にパジャマだと、ますます……」  そう口走りつつ途中で言いよどんだその様子に、一瞬目を細めた花菜実は、 「幼い、って言いたいんですか?」  先回りして言ってやった。言葉に詰まった幸希は数瞬の後ニッコリと笑い、 「そんな花菜実も好きだ」  乾ききっていない髪をなでてから「僕も入ってくる」と言い捨て、逃げた。 「……もう」  ほぅ、と息をつき、花菜実はリビングのソファに腰を下ろす。何畳か推測するのもはばかられるほど広い部屋の片面は、ほぼ全面窓になっている。半分はダイニングとなっており、テーブルや椅子が置かれている。そしてもう半分はリビングとして使われているのか、ローテーブルと革張りのソファがあり、花菜実はその端っこに座った。 「今日はいろんなことがあったなぁ……」  オルジュで裕介たちに再会し、嫌がらせの全容を聞かされたこと。  いきなり幸希の家に連れて行かれて、両親に引き会わされたこと。  幸希曰く『要注意人物』の妹に懐かれて、べったりされたこと。  いろんなものを買い与えられて、ここに連れて来られたこと。 「っていうか、この後だよぉ……」  そう、バスルームを出るまで忘れていた、一番重要なこと。 (一晩一緒にいる、ということは、そういうこと、なんだよね……?)  思わず両手で赤くなった顔を覆う。  静かな室内――高層階だし、おそらく防音などもきちんと施されているであろうマンションなので、外の喧騒など聞こえない。ドアの向こう側から、ほんのわずかながらシャワーの水音が聞こえてくる。そして一番大きく耳に入ってくるのは、自分の心臓の音だ。 (うわぁ……めちゃくちゃ緊張してる……)  手の平に汗が滲んでいるのが分かる。  花菜実は処女だ。多分そのことは幸希も分かっているだろう。何せあの捏造音声でも処女扱いされていたのだから、彼らにすらバレバレだったに違いない。  別にそのことについて恥じていることなど何一つないし、貞操を頑なに守り続けているわけでもない。  ただ単に、縁がなかっただけだ。 (……ううん、それだけじゃない)  裕介に「お前じゃ勃たない」と嘲笑されたことで、自分に女として欠陥があるんじゃないかと、心のどこかで気に病んで、恋愛に及び腰になっていたのも確かだ。  もし幸希にさえそう思われてしまったら―― 「大丈夫、きっと、幸希さんなら……」 「僕が何?」  嫌な考えを断ち切るように、ぶるぶるとかぶりを振ると、頭上から声が落ちてきた。 「っ、あ、ご、ごめんなさい! ちょっと考えごとしてて……」  見上げると、プルオーバーのルームウェア姿の幸希が、ペットボトルの水を飲んでいた。もう片方の手に持っているボトルを花菜実に差し出しながら。 「あ、りがとうございます……」  それを受け取った花菜実は、蓋を開け、ひとくち口に含んだ。幸希は隣に腰を下ろし、彼女の顔をまじまじと見つめた。 「少し顔色が悪い。具合がよくないのか?」 「違います、大丈夫です」 「……そっか、ならいいけど」  優しく笑い、幸希が花菜実の頭をなでる。 「幸希さんって、私の頭なでるの好きですよね。何かいつもなでられてる気がします」 「嫌?」 「嫌じゃないです。他の男の人なら嫌ですけど……」  何かにつけて頭に手を乗せられている気がするが、それがいつもとても心地がよい。好きな人の手だから、なのは花菜実にも分かっている。 「他の男には触らせないでくれると嬉しい」 「当たり前です! ……あ、でもきっと父と兄からはされると思いますけど」 「まぁ……家族なら仕方ない」  そう言った幸希は、壁にかかった時計に目をやる。花菜実も釣られて同じ方向へと視線を据えた。 「もう十時半過ぎてますね」  夕食の時点でもう八時を回っていたので、あっという間にこんな時間だ。 「寝ようか」  幸希は花菜実の手を取って立ち上がった。 「は、い……」  幸希の部屋は玄関を入って右の奥がリビングダイニングになっており、反対側の左の奥がマスターベッドルームになっている。  二人はリビングを出ると、そのまま真っすぐ進み、一番奥のドアの中へと入った。 (わ、広い……)  水科家の幸希の部屋よりは若干小さいものの、十分に広い寝室だった。白い部屋の奥の壁際に、大きなベッドが置かれていた。リネンはすべてブラウンを基調としたストライプ柄で統一されている。  ベッドの両サイドにはチェストが置かれており、向かって左側の方には目覚まし時計が置かれているので、おそらく幸希はそちら寄りで寝ているのだろう。  案の定、幸希はベッドの左側に入り、空いている右側に手を置いた。 「花菜実、おいで」 「は、はい……」  うるさく響く心音を持て余しつつ、花菜実はこわごわと彼の隣へと乗り上げた。すると幸希は自分たちの上にふわりと布団をかけ、花菜実を抱き寄せた。 「これじゃ眠れない?」 「え?」  尋ねられて、花菜実は困惑する。幸希の胸の中で、何度も瞬きを繰り返す。抱きしめられてはいるけれど、それ以上動くことなく、何らかの展開もなさそうで、まさにそのまま眠りに落ちてしまいそうな体勢だ。  もぞもぞと身体を動かし、ほんの少し幸希から離れる。 「あの……」 「ん?」 「その……何もしないん、ですか?」  おずおずと幸希の瞳を覗き込む。彼はわずかに目を泳がせ、そして口を開いた。 「あー……今日はいろいろあって、花菜実は疲れてるだろう? だから今日はいいんだ。一緒にいたかったから、ここに連れては来たけれど。今日は無理にするつもりはないよ。……花菜実のことは大切にしたいから」  花菜実のことは大切にしたいから――過去にまったく同じことを言った男は、それと同時に、女として失格という烙印を彼女に押した。 「……」  幸希は彼とは違う――そう分かってはいるのに、どうしても感情が昂ぶるのを抑えられなかった。  花菜実は幸希に背を向け、肩を震わせた。 「花菜実? 泣いてるのか?」  幸希が布団を跳ね上げて起き上がった。 「ごめ……なさい……。違う……こ、きさんは違う、って、分かってる、けど、わ、たし……っ」  泣きじゃくりながら、以前裕介に言われたことを、たどたどしく語る。それに水科家の別荘や花菜実の部屋でも、幸希は彼女にキスしかしなかった。そのことも引っかかり、彼に限ってそんなはずはないと分かってはいても、嫌な思い出がフラッシュバックしてしまった。  彼を責める気持ちなど微塵もないし、そんな資格もないのに、涙があふれて止まらない。  幸希は後ろから花菜実をそっと抱きしめる。 「すまない、花菜実。嫌なことを思い出させてしまって」 「こう、きさんは、悪くない、です……私が、勝手に……」 「僕は今まで、花菜実にそういうことをほのめかしてはきたけれど……別荘に行った時も、君の部屋に行った時も、僕はキス以上するつもりはなかったんだ。……それには僕なりの理由があって」  花菜実の頭にキスをするようにくちびるを押し当てながら、幸希が語る。 「り、ゆう……?」 「そういう関係になるのは、花菜実から『好き』という言葉を聞いてからにしようと決めていた」 「っ、」  言葉に詰まる花菜実。 「花菜実の気持ちが定まっていないのは分かっていたし、なしくずしにセックスをしても、何の意味もないと思った。キスは……我慢出来ずにしてしまったけれど」 「……」  花菜実の瞳から、再び涙がこぼれた。 (私、やっぱり嫌な女だ……)  幸希は花菜実の気持ちが成熟するのを、辛抱強く待っていてくれた。それを知らずに、分かろうともせずに、自分はいつもこうして泣いて彼を困らせてばかりいた。  やっぱり自分は幸希の気持ちの上であぐらをかいていたのだと、うちのめされる。 「ご、ごめ……なさ……」 「花菜実は何も悪くない。元々は僕が花菜実の元へ急に押しかけて、勝手に気持ちを押しつけていたんだから。君の気持ちがついてこられなかったのも当然のことだ。……花菜実が僕のことを好きになってくれた、それだけでも十分なんだ。それに今日は、本当に花菜実が疲れてると思って我慢しているだけだから」 「が、まん……」  花菜実がぽつりと呟いた。 「別荘で、花菜実の部屋で、それから今も……僕の頭の中を覗くことが出来ていたら、花菜実はきっとびっくりすると思う。こういう言い方は好きじゃないけれど、ドン引き、ってやつだ」  それくらい、えげつないことを考えているんだ――幸希は苦笑いをし、ベッドサイドに置かれたティッシュケースから数枚取り出し、花菜実に手渡した。彼女はそれで涙を拭い、そして深呼吸と咳払いをした。  今度は別の意味で感情が昂ぶりだす。愛おしさで気持ちが大きく育っていくのが分かる。心と身体に温もりをくれるこの男性(ひと)が欲しくてたまらなくなって。  布団の中で幸希に向き合う。  間近にある彼の頬に手を添え、目を閉じたままくちびるを幸希のそれにそっと押しつけた。音もなく離れた後、目を開いた花菜実の口から告げられたのは―― 「幸希さん、愛してます」  心の内から本音を絞り出し、震える声に乗せた。 「……っ、」  今度は幸希が言葉を詰まらせる番だった。彼の応えを待たずに、彼女は言葉を継ぐ。 「今日、幸希さんを私のものにしてもいいですか?」  それは、花菜実が出来る精一杯の愛情表現と誘惑だった。
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