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第50話
「僕はこの傷を見せびらかしたいくらいだから、花菜実は気にしなくていいんだ」
恥ずかしがる花菜実を言い含めて二人でシャワーを浴びた幸希は、それはそれは上機嫌だった。
彼女によってつけられた傷はシャワーのお湯でしみたりルームウェアを身につけた時に痛んだりしたらしいが、それすら嬉しくてたまらないと彼は言っていた。
きれいな身体に傷をつけてしまい申し訳ない気持ちはあったものの、花菜実もさっきは痛みすら幸せだと感じていたので、幸希も同じように思ってくれているのだと知り、嬉しくもあった。
入浴後、汚れたシーツを二人で替えた。外したそれを洗うのか処分するのか幸希に尋ねてみると、
「花菜実の初めてを貰った記念にこのままとっておこうと思う」
真顔でそんなことを言い出した。花菜実は開いた口が塞がらなかったがすぐに正気を取り戻し、声を荒らげた。
「なっ、何考えてるんですか! 本気ですか!?」
「きわめて本気だけど」
(本気なら余計にタチが悪いよぉ……)
花菜実は口元を引きつらせた。
「……やめましょう? 汚いですし」
「花菜実の初めての証が汚いわけがないだろう?」
冷静に説得を試みるが、本人に響いている様子は一切ない。
「幸希さんがそう思ってくれるのは嬉しいんですけど、それだけはお願いだからやめてください」
花菜実が心底困っているのを見て、幸希は仕方がないな、と言いたげにため息をついた。
「――じゃあ、僕のお願いをひとつ聞いてくれたら、花菜実の言う通りにするよ」
「何ですか?」
小首を傾けて続きを促すと、幸希は優美に口角を上げて言い放った。
「来年の春に結婚しよう」
花菜実は目をぱちくりとさせた。随分と大きなお願いである。
「三、四ヶ月もあれば、両家の顔合わせも結納も新居の準備も出来るだろう? 挙式は篤樹たちに先を譲るとして、入籍と新婚生活くらいは好きなタイミングでさせてほしい」
「でも……」
「もう、花菜実と離れて暮らせる気がしないんだ」
戸惑う花菜実に、幸希はさらに言葉を重ねた。切羽詰まったような、切実な声色だ。
「幸希さん……」
「花菜実、改めて言う。――僕と結婚してほしい」
真摯な表情と声音が静寂を呼ぶ。沈黙に包まれたまま二人は見つめ合っていたが、しばらくの後、花菜実はつい吹き出してしまった。
「花菜実?」
予想外の彼女の反応に、さすがの幸希も若干の困惑を見せる。
「……こんな私でも、理想のプロポーズみたいなのは一応あったんですよ?」
夜景の見えるレストランの窓際の席で指輪を出されるとか。
デート帰りの家の前で呼び止められて、振り向きざまにだとか。
児童公園のブランコに揺られながらでもよかった。
今までいろんなシチュエーションを想像してきた。
だけど――
「――まさか、自分が汚したシーツを抱えてプロポーズされるなんて、思ってなかったなぁ」
花菜実はクスクスと笑いながら、幸希が小脇に抱えたボックスシーツを摘んで引っ張った。指摘された幸希は、情けないほど眉尻を下げた。
「……やっぱり花菜実といると、カッコつかないことばかりだな。ごめん、花菜実」
申し訳なさげな彼を見て、花菜実は再びクスリと笑い、そして――
「……分かりました。お受けします」
「本当に?」
「幸希さんにそんな表情されたら、さすがに断れません。……いろいろ至らないことも多い私ですけど、よろしくお願いします」
花菜実は深々とお辞儀をした。
その時の幸希のホッとしたようなとろけた笑顔を、彼女は一生忘れないだろう。
それからシーツを含めた汚れものを洗濯機にセットした後、真新しいそれをかけたベッドに二人で入ると、幸希は花菜実を抱き寄せた。彼女の頭に頬を擦り寄せ、ぽつりと言う。
「早く毎日こうして寝たい」
「春までは我慢ですからね?」
「それまで週末だけここで過ごそう。金曜の夜から日曜にかけて。そして日曜の夜は僕が花菜実の部屋に泊まって、月曜日はそこから出勤する。我ながらいい考えだ」
「それってもう半同棲になっちゃうじゃないですか。いいのかなぁ……。あ、今度の土曜日はおゆうぎ会なので、金曜の夜はここに来られませんよ?」
「そっか、来週末はおゆうぎ会か。観に行ってもいい?」
「え、来るんですか?」
「どうせ篤樹も行くんだろうし、僕も行くよ」
「また保護者たちの注目の的になっちゃいますよ?」
「大丈夫、僕は花菜実しか見てないから」
「……翔くんを見てあげてください」
そんな会話を交わした後、疲れと安堵ですぐに眠りに落ちた花菜実。よほど疲れたのか『おやすみなさい』すら口にせずに寝てしまった。
だから幸希が彼女に優しくキスをした後、
「ごめん花菜実……でも絶対に幸せにするから」
と、苦笑混じりに呟いていたことなど、花菜実は知らなかった。
ましてや、『ほっとけない』『カッコ悪い』オーラを出しながら断れないようなプロポーズをしたのが、花菜実の性格を見越した幸希の計算だったこと、洗濯機に放り込んだシーツが実はダミーだったことなど、幸せそうに寝息を立てる彼女には知るよしもなかった。
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