第52話

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第52話

***とあるパティシエのぼやき*** 「ごめんな、ちなみちゃん。待たせて」  とっぷりと日が暮れた頃、野上亨はヴィラ・ベルザのイートインスペースに座って本を読んでいるちなみに声をかけた。 「ううん、この小説、面白かったから時間過ぎるの早かったし……」  店はもう閉店で、エントランスのウィンドウにはシャッターが下りている。ちなみが読んでいる本は、野上がプレゼントしたものだ。こうして彼女が自分を待っている間の暇つぶしにでもなればと、何冊か選んだミステリーの内の一つだ。ちなみは本を閉じると、大きく息をついた。 「花菜実、ほんとに幸せそうだったなぁ……」 「……そうだなぁ」  野上がさらに大きなため息をついた。その声音がまとうわずかな違和感に気づいたのか、ちなみは彼の顔を覗き込む。 「どうしたの? 亨さん」 「……こんなことあの子に聞かせたら俺が幸希に叱られるだろうから、さっきは話さなかったけど。今回の花菜実ちゃんたちの写真捏造のことな……あいつ俺にニコニコしながら話してきたけど、目は笑ってなくて怖かったんだよなぁ」  幸希は相談という名目で野上を呼び出し、協力を要請したそうだ。 『いくら合成とはいえ、あんな下品な女たちとキスどころかセックスさせられたんですよ? 不愉快極まりないです。あまつさえ、それを花菜実に送りつけて傷つけて。花菜実の写真に至っては名誉毀損どころじゃない、鬼畜の所業ですよね。……だからどうしてやろうか思案している最中なんですが、野上さんにも協力していただきたくて』  彼はそれはきれいな笑みで野上に言い放ったらしい。 「俺は『鬼畜はおまえだ』って言ってやりたかったね」  昼間に続き、明かされる幸希の一面にちなみは苦笑した。 「まぁ……大事な人がそんな目に遭ったら、怒っちゃうのは分かるなぁ」 「この間のオルジュでの件、実は花菜実ちゃんが来る直前まで、俺もいたんだよ。立ち会わされたわけ」  幸希はオルジュのVIP用食事券を日にち指定で彼らに送りつけたそうだ。しかもそれぞれ三人の内の一人が抽選に当たり他の二人を招待した、という体で。彼らは何の疑いも持たずに店にやって来て、普通に食事をしたらしい。  VIP用のメニューだったので、出された料理は高級食材がふんだんに使われており、どれもこれも絶品だったそうだ。彼らがそれらに舌鼓を打ち堪能し、すっかり気の緩み切った食後に事態は急変した。  パティシエとして呼ばれていた野上が、きらびやかな洋菓子が載ったデザートワゴンとともに登場した。そして彼らにメニューと称して手渡したハードカバーの冊子――それをめくった三人は、みるみる顔色を失くしていったそうだ。 「――その冊子の中身、何だったと思う?」 「?」  野上の問いに、ちなみは首を傾げた。 「履歴書だよ、やつらの」 「履歴書?」 「幸希が、自分が持つありとあらゆるコネクションを駆使して調べ上げた、やつらの“完全無欠”な履歴書だ」  そこには、出生地、住所、転居歴、出身校、学校の成績というごく普通の情報から、両親の出身地、職業、兄妹姉妹の有無などの家族構成、本人の趣味、好きな食べ物、映画などの嗜好、身長、体重、病歴などの健康状態、過去の交際歴、その他――彼らのほぼすべての情報がびっしりと網羅されていたそうだ。 「――極めつけは『犯罪歴』。これは赤字ボールドで書かれてた」  犯罪歴――とは言っても、実際に逮捕や起訴がなされたわけではない。彼らが絶対に他人には知られたくない、後ろ暗い事情や過去のことだ。  浜島茉莉は、メガバンクの法人部部長と不倫をした挙句、妊娠した子を堕胎したことがあった。  長崎千賀子は、自分によく似た従妹の弱みを握り、替え玉受験をさせて大学に入学していた。  そして川越祐介は、大学時代に一緒に飲んだ女子学生の酒に薬を混入させ、酔い潰してホテルへ連れ込み、被害届を出されそうになったのを示談で収めた。  これは彼らがひた隠しにしてきて、知っている人間はほとんどいないような出来事だ。彼らですら忘れかけていたことである。しかもこの一件ずつだけではなく、彼らが今までしてきた所業が、花菜実の件も含めていくつも列挙されていたそうだ。  幸希は彼らのことを徹底的に調べ上げ、プライバシーを丸裸にしたのだ。  三人が目に見えて動揺し始めた頃を見計らい、幸希はその場に現れた。彼の姿を見て、彼らはようやく自分たちが花菜実や幸希へやらかした所業について呼び出されたということに思い至ったようだ。さらに顔色が悪くなっていったらしい。  一方幸希は、徹頭徹尾穏やかな物腰だった。柔和な微笑みを浮かべて優雅に席に座り、彼らにデザートを勧めていたらしい。威嚇をしたり声を荒らげることなど一切なかった――いやむしろ、そうされていた方がまだよかったのかもしれない。  美しい笑みを浮かべながら、彼らと対峙する幸希を目の当たりにして、野上は背筋に寒気が走ったそうだ。 「あれだけこと細かく調べ上げられたら、もうぐうの音も出ないわけでさ。それだけでもう、あいつらに対する今後の抑止力になるわけだよ」 「す、すごい……」 「しかも幸希はあの三人を言葉で脅すでもなく、ただ『もうすぐここに花菜実が来ますから、心からの謝罪をお願いしますね』、それしか言ってないんだわ。それで俺は席を外して、すぐ後に花菜実ちゃんが来たというわけ」  花菜実が来てからは、幸希が彼女にすべてを説明し、彼らに謝罪をさせた――野上はその日の夜に幸希からそう報告を受けた。  オルジュでの出来事はこれが全部――野上が告げた。 「でも、水科さんよくそれだけで我慢しましたね。結局その人たち、警察沙汰にもなっていないんでしょう?」 「あいつはそんなタマじゃないから。オルジュでは花菜実ちゃんに謝らせただけで終わったけど、そこからが本題だから」  野上のもったいぶった言い方に、ちなみは身を乗り出す。 「どういうこと?」 「調べた内容を故意に流せば、幸希が名誉毀損で訴えられる危険性もある。だからあいつは調べ上げた内容を絶対に周囲に流布したりしないんだ。でも具体的に触れ回らなくても、制裁する方法をあいつは持ってる……そこが怖いところでな」  苦笑を混じえつつ、野上は言葉を継ぐ。 「――水科幸希を敵に回した、ってだけで、うちの大学関係、それから当然ミズシナ関係者から白い目で見られるようになるんだよ。周囲にそう思わせるだけのものを、あいつは今まで築き上げてきてる。知識、人脈、信用、その他もろもろ。今回もあいつはさりげなく、あの三人が水科幸希に目をつけられた、っていう事実だけを上手く周囲に流してるんだ。具体的な内容には一切触れないだけに、やつらも訴えようがないわけだ。そんな状況だから、噂を聞いた人間の中には『あいつらは一体、どれだけ酷いことをやらかしたんだ』と見るやつも現れる。あやふやな情報ほど、人間の妄想をかき立てるものはないからな。あいつはそれを狙ってわざと詳細を流さずに煽るだけ煽る。後は周囲がどんどん噂を膨らませてくれるというわけだ。実際、すでにやつらは針のむしろ状態になっているらしい」  野上はいったん言葉を切り、大きく息を吸った。 「――それこそが、花菜実ちゃんを傷つけたやつらに対する幸希の復讐なんだよ」 「ふわぁ……すごい……怖いなぁ……。でも、花菜実を傷つけた人たち、私も許せないから同情はしない」  ちなみが軽く眉を吊り上げる。大学時代に続き、今回も同じように花菜実を貶めた浜島茉莉と川越裕介が特に許せないと、彼女は野上に言った。 「っていうかさぁ、あの日絶対、俺は必要なかったと思うんだよ! オルジュには専門のパティシエがいるし、あの場には水科家の運転手もいたんだから。……あいつ、俺にあの『履歴書』を見せたかったんだと思う。『僕の大切な人を傷つけるとこういうことになるんですよ』っていうのを知らしめるために。そうするとさ、俺が口にする『幸希だけは敵に回したくない』という言葉が信憑性を帯びてくるわけだ。……絶対そのためだけに呼び出したんだぜ、あいつ!」  語調を荒らげて、野上が吐き出した。ちなみはクスクスと笑う。 「落ち着いて。それって亨さんに『僕を敵に回すな』って言ってるわけじゃなくて、亨さんを信用してるからそういう役割を任せたかったんでしょう? ……もし亨さんが傷つけられたら、水科さん、同じように怒ってくれると思うの」 「……ちなみちゃんがそう言ってくれると、本当にそう思えるから不思議だなぁ。さすが俺の白衣の天使」 「ふふふ、ありがとう」 「……今回これで一件落着ではあるけどさ、花菜実ちゃんもある意味厄介な男に好かれちゃったなぁ……って、少しだけ同情するよ。まぁ、本人たちは幸せそうで何よりなんだけどな」  野上は『そろそろ行こうか』と、ちなみを促し、店の電気を夜間照明にした。ちなみは立ち上がり、そしてニコッと笑う。 「水科さんも言っていたけど、花菜実ならきっと大丈夫。彼と上手くやっていけるから」  可憐な花が咲き誇ったような笑顔に、心が温かいもので満たされる。 (俺はいつプロポーズするかなぁ……)  野上はそんなことを思いながら、ちなみをエスコートしてヴィラ・ベルザを後にした。
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