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第6話
今まで二十四年間生きてきて、まさか自分がストーキングめいたことをされるだなんて、チラリとも思ったことがなかった花菜実。よくも悪くも大衆に埋もれてしまうような平凡な自分に、目を留め執着する人間などいるはずがないと思っていたから――そう、今日この時までは。
「ま~たあなたですか。もう、お金持ちの道楽にはつきあってられません! からかって遊ぶなら、他の人にしてください!」
あの日からちょうど一週間後の金曜日の夕方――そう、週の内でもっとも嬉しくて幸せなひとときだ。いつものように自転車に乗って帰ろうとすると、先週と同じことが起こっていた。
水科幸希は、先週と同じように白い輸入車から降りてきて、先週と同じように花菜実の前に立ちはだかった。二人にはかなりの身長差がある。まさに『立ちはだかる』という表現がふさわしい。
花菜実は毛を逆立てたネコのように苛立っているようで。目の前の男に容赦なく食ってかかった。
「金持ちなのは否定しないけど、道楽とは聞き捨てならないな」
息巻いた彼女とは反対に、幸希は嫌味なほど優雅に微笑む。花菜実の憤りなど軽くスルーしているようだ。そんな彼を見て、ますます苛立ってしまう。
「いい加減にしてくれないと、私だって本気で怒りますからね!」
もう既に怒っている――そう突っ込まれる前に、花菜実は風切るように背を向け、自転車を解錠しようとした。しかしそれより先に幸希の手が彼女の腕をつかむ。
「待って。少しは僕の話も聞いてくれないかな。何だか誤解されたままだし、依里佳さんの名誉にも関わることだから」
依里佳の名誉――真剣な表情でそう言われてしまえば、聞かないわけにはいかない。花菜実はため息混じりで幸希へと向き直った。
「……何ですか? その、名誉、って」
「依里佳さんとつきあっているのは、僕じゃない。僕の弟だから」
「弟……さん?」
きょとん、とする花菜実。
「弟……篤樹は先日の運動会にも来ていたし、頻繁に依里佳さんのお宅にもお邪魔しているようだから。もし二人が一緒のところを君が目撃でもして、要らぬ勘違いをすれば彼女の名誉に傷がつくことになる。だから、その誤解を解きたかったんだ」
そう言われてみれば、あの日は家族以外に三人の男女がいたことを思い出した。どうやら翔が「えりかのかれし」と言って指差したのは、もう一人の男性の方だったようだ。
幸希の言うように、もし今の情報を耳に入れないまま依里佳と本当の彼氏が一緒のところを見かけたりしたら、浮気とまでは考えないにしても「あの人とは別れたのかな?」くらいは思ったかも知れない。そのこと自体は花菜実の生活にはまったく影響しないとは言っても、正しい情報を把握しておくことに越したことはない。
「そう……だったんですか。分かりました。わざわざありがとうございました。……では」
ペコリとお辞儀をし、今度こそ帰ろうと再びきびすを返そうとするが、幸希がそれを許してくれなかった。またしても腕をつかまれて。
「僕の用事はまだ終わってない」
「もう……まだ何か?」
「今日は、僕につきあってほしいんだ」
幸希の口から先週と同じ台詞が放たれた――但し、助詞だけをすげ替えて。花菜実は眉をひそめる。
「……は?」
首を傾げる彼女に、幸希がクスクスと笑う。何だかひどく楽しそうだ。
「今日は『どこにですか?』って、聞かないのか?」
「私があなたにつきあう理由なんてないんですけど?」
「それがあるんだ。……来週、翔くんの誕生日があるだろう? プレゼントを送りたいが、何せ幼稚園児の好みが分からない。君なら担任だし、よく分かっているだろうと思って。一緒にプレゼントを選んでほしいんだ」
幼稚園でも十月の誕生日会の準備は着々と進んでいる。その園児たちの中に翔が名を連ねていることも確かだ。だから彼が嘘をついているわけではないことは分かるが……。
しかしそのプレゼント購入に、何故自分がつきあわなければならないのか――花菜実は釈然としないまま、
「それこそ、依里佳さんに聞いたらどうですか? 弟さんの彼女なんですよね?」
と、そっけなく言った。
「それが……弟は独占欲のかたまりでね。僕が個人的に彼女に連絡を取ろうものならそれはもう、ドーベルマンかロットワイラーか、という勢いで噛みつきかねない。いろいろ勘ぐられるのも嫌だし、それで弟と気まずくなるのなんてごめんだから」
幸希は大仰に肩をすくめる。
「依里佳さん、すごい美人ですもんね。独占欲が強くなるのも分かります」
依里佳は確かにちょっと見ないくらいの美女だが、性格は見た目とはかなりギャップがあり、真面目で少々変わっている。特に甥っ子への溺愛ぶりは花菜実から見ても感心するばかりだ。
「そういうわけだから、翔くんが喜びそうなものを選んでもらいたい。もちろん、お礼はするよ」
そこまで乞われてはアドバイスするしかない。花菜実は苦笑いつつ、
「――分かりました。じゃあ、翔くんが好きそうなもの、私が知る限りでお教えします。それでいいですよね?」
そう答え、バッグの中からメモ用紙とボールペンを取り出した。もちろん、翔が好きなものをリストアップするためだ。しかし、それらは機能を果たす前に、手から取り上げられた。
「そうと決まれば早速行こう。……乗って」
幸希が花菜実のバッグに筆記用具を押し込み、そして彼女を車の助手席へと押し込んだ。
「え? あ、ちょっと! そうじゃなくて、教えるだけ……」
「好きなキャラや作品だけ教わっても、どれを選んでいいか僕には分からないし。だから、君に……花菜実さんに選んでもらわないと困るんだ」
すかさず運転席に乗り込んだ幸希はそう言い放ち、瞬く間に車を発進させた。
「あ、ちょ……じ、自転車! 自転車置いていったら……!」
まだ解錠していなかったとは言え、駐輪場に置きっぱなしにしていくのは心許ない。盗まれないか心配だ。それに月曜日の朝に徒歩で通勤しなければならない。そう遠くはないが、何だか損した気分になる。
「鍵さえ預けてくれれば、後で人に君の家まで運ばせるから大丈夫」
(って、私が住んでるところまで知ってるの? この人……)
「あのー……ちょっと強引すぎやしませんか? 私、あなたのこと何も知らないのに、こんな風に車に乗せて……」
「あなたじゃなくて、水科幸希だ。幸希、と呼んでくれていい」
くちびるを尖らせて抗議する花菜実に、幸希は運転席からチラリと笑みを送る。
「水科さん、そもそもどうしてあなたは私のことを知っているんですか? 弟さん経由で依里佳さんにでも聞いたんですか?」
意地でも名前でなんて呼んでやらない、と、花菜実は名字を強調する。
弟経由で依里佳に自分のことを尋ねるくらいなら、そのルートで翔の好きなものを聞けばいいのだ――そう思った。
「その件については、まだ秘密、ということにしておくよ。……ともかく、僕は怪しい者ではないし、君を騙したり酷い目に合わせるつもりもまったくない。君のことが好きだから、もっと知りたいだけなんだ」
進行方向を見つめながら話す幸希の顔は、緩く解けている。花菜実がここまでそっけない態度を取り続けているというのに、そんなことは介意することなく、彼女とのドライブを心の底から楽しんでいるようにすら見えるから不思議だ。その上、何の躊躇いも見せずに「好きだ」なんて――
(ほんとにもう……何がしたいの?)
「だから、からかうのはやめてください! ……翔くんのためだから、今日だけはおつきあいしますけど、もうこういうことはしないでくださいね?」
言いたいことを言ってスッキリしたのか、花菜実はほぅ、と息をついて身体を助手席のシートに預けた。
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