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「あのね、私、海にいるんです」
『またそんな所ほっつき歩いてるのか』
呆れたようにため息をつく。雛子は折れそうになる心を必死に保つ。
「皆楽しそうよ。冷たい波の中を泳いで、沢山の屋台から美味しい匂いがして」
『フン。そんな馬鹿な奴ら放っておけ』
父親は吐き捨てるように言うと、声を低くして言った。
『雛子、お父さんがどんな思いで雛子を育てたか、家を守ってきたか、分かるかい。そんな所にいないで、早く帰ってきなさい』
幼き日の記憶が蘇る。
苗字を呼ばれるのが嫌だった。
地元の人ならその名前を言えば目を丸くするような企業。あら、あの一峯寺さんの娘さん?あら、お嬢様ねぇ。私のウチなんて漁師よ、私もそんな家に生まれてみたかったわぁ。
父と母は、よく言った。
雛子、自覚を持ちなさい。
雛子ちゃん、貴女の一挙一動は、貴女一人のものではないのよ。
母さんの言う通りだ。お前はきちんと勉強して、きちんとした振る舞いを身につけなさい。
言うこと聞けるわよね、雛子ちゃんは素直な子だから──────
期待してる──────そう言われると、何も言えなかった。見捨てられてしまうのが、怖かった。
しかし、今日の雛子は違った。今日は、何故か勇気が湧いてくる。まるで夢の中にいるような気持ちだ。何をしても夢が醒めてしまえば元通りになるような、無責任な、しかし自信に満ち溢れた、そんな気持ち。まるで夏の熱に浮かされているようだった。
まだ説教を続けようとする父親を遮る。
「ねぇ、お父さん」
『だから、お父さんじゃなくてお父様と──────』
「わたし、水着が欲しいの」
『は!?』
聞いた事のないような素っ頓狂な声をあげて、父親の声が止まった。その空白を埋めるように、雛子の口からは堰を切ったように言葉が溢れる。
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