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姉
姉の美紀子は誰からも好かれる人だった。
近所の人々は美紀子を見かけると顔を綻ばせ、姉が挨拶をする前に我先にと声をかけていた。
隣で歩いていると、美代子はまるでお姫様の侍女にでもなったような気持ちになった。
誇らしさと冴えなさは交互にやってくる。
他人に与えられた特権に旨味を感じながらも、自分の無力さを突きつけられている、そんな心持ちだ。
悔しいというわけでもない、ただ自分が情けない。
だからといって姉を憎むことはなかった。
なにもかもが「よくできた」姉。
嫌悪してしまったなら、それは自分のつまらない感受性に斬り返される。
そういう意味で姉を嫌うことを禁じていたともいえる。
一人だけ、姉のことを怖がった者がいた。
美代子の同級生の矢作達彦だ。
達彦とは同じ小学校に通っていた。
ときどきクラスがいっしょになった。
とくに仲がいいわけでもなかった。
ほとんど話したこともなかった。
あるとき達彦がいった言葉を、美代子は忘れることができなかった。
「ばけもんだな」
あれはたしか、小学生のときだった。
そのとき美代子と達彦は小学五年生で、クラスメートだった。
学芸会で美代子のクラスは『オー・シャンゼリゼ』を歌った。
体育館の舞台からはけて、美代子がクラスメートと共に外へ出たとき、美紀子が手を振って駆け寄ってきた。
「すごく素敵だったわ」
美紀子はそういって美代子をきつく抱きしめた。
痛かった。
正直たいして声をだしていなかった美代子は、その熱烈な態度に困惑した。
なにをしても、姉は絶賛してくれる。
だいたいあの合唱のなかで、妹の声を見つけることができたのだろうか。
その大げさな感動に対して、美代子からすれば既に冷めている部分があった。
クラスメートたちが美代子を置いて教室へと去っていく。
自分も一緒に教室に戻らなくてはならない。
「ありがとう」
そういって美紀子から離れた。
視線を感じ、振り向くと遠くで矢作達彦が怪訝な表情を浮かべていた。
「クラスに戻らなくちゃいけないから」
そういって美代子は矢作達彦のほうへとよろよろ向かった。
達彦は学級委員で、同級生と一緒に教室にすぐ戻らなかった美代子を待っていたのかもしれないと思った。
美代子と達彦は教室へ、肩を並べて歩いた。
達彦が急ぎ足にならなかったので、美代子も従ったかたちとなった。
校舎に入ったところで、達彦が口火をきった。
「あれ、お姉ちゃん?」
「そうだよ」
美代子は答えた。
お姉ちゃん以外のなにものでもなかったし、達彦との会話はいつだって「花壇に水をやってください」とか「給食の片付けを始めてください」などと命じられることばかりだったので、とくに会話が弾むとも思えなかった。
ただ、問われたことに返事をしただけだ。
「ばけもんだな」
達彦が口にした言葉を最初理解できなかった。
化け物。
なにを指しているのか。
校内の壁に貼られているポスターの前で立ち止まった。
「歯を磨かないとたいへんなことになる」と書かれ、虫歯によって汚れぼろぼろになった口内の写真があった。
「なにが?」
美代子は訊いた。
たぶんポスターのことではない。
「加藤さんのお姉さん、ばけもんだな」
なぜそんなことを達彦がいうのかわからなかった。
腹が立った。なのに、美代子は笑ってしまった。
「なんで笑えんの?」
達彦が不思議そうな顔をした。
まるで人に、まだ習っていない問題を出され、不機嫌になる、みたいに。
「たしかにそうだな、って思って」
美代子は小さく笑ったが、ほんとうは大声を出して、笑い転げてやりたかった。
姉に悪いかもしれないと考え、笑いを抑えた。無理をしてしまい、しゃっくりがでた。
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