門限

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門限

 門限を破ってしまった。  ドトールで友人たちとしゃべっているあいだ、美代子は気が気でなかった。  どうやって、この場から抜けるか。  みんなの話題は際限なく広がっていく。  はじめは先生の悪口だったのに、テレビの話になり、お気に入りのユーチューバーから、かっこいい男の子の話になった。  ちょうどいいところで立ち上がりたかった。  何度かスマートフォンを確認した。  そのたびに、横に座っている直美が、花田くんからラインがきたの? と訊いてくる。 「そろそろ帰んなきゃなって」  美代子はいった。  直美と真緒が、白けた表情をした気がして、焦った。 「まだいいじゃん。まさか、門限とかあるわけじゃないっしょ?」  直美がいう。  友達たちは、美代子の家庭事情と気持ちを知らない。  それは助かるけれど、こういうとき厄介だった。 「そういうわけじゃないんだけど……」  門限は、美代子自身が課しているものだった。  両親は、美代子が何時に帰ってこようがとくに関心などない。  父は仕事から帰ってくると風呂に入り寝室に直行していた。  母はいま、未来を担う子供たちに美味しい水を届ける活動とやらに夢中で、美代子のことなど毎朝テーブルに千円札を置いておけばいいと思っているふしがある。  もう慣れてしまっている。  それに、そんなふうに家族がなってしまったことを嘆いたり騒いだりするほどに、この状況を変えようという強い意志も情熱も美代子のなかには残っていない。 「だったらいいじゃん」  と結局引き止められてしまった。  向かいに座っている真緒は、フェスに、お気に入りのバンドが出る、これはすごいことだ、という話を何度も挟んでこようとする。  直美はデートをした大学生のことを話したくてしょうがないらしい。どこに行った、なにを食べた、男の子はやっぱり車を運転できなくちゃ、彼氏にするならやっぱ年上だよね。まわりがうんざりしているのに気がつかないのか、気にしないのか。 「じゃあんたその人と同じ大学受けんの?」  真緒が直美に訊ねた。  真緒の好きなミュージシャンは有名大学を卒業している。  だからそれ以下の大学をバカにしている。だからといって真緒は頭のいい子ではない。  同じ大学に入りたいから猛勉強しないと、なんて口ではいうけれど、やっているようには見えない。 「絶対受けない。大学クソつまんないって鴨下くんいってるし」  直美は即答した。  それに美代子たちは馬鹿笑いをした。  まるで自分の存在を知って欲しくて無理に大きく声をあげているみたいだ。  夜十時のドトールには、不釣り合いだった。  まわりは疲れた社会人たちばかりだった。  ときどき咎めるような視線を感じた。  さっき舌打ちも聞こえた。  きっと横暴なギャルが、うぜえ、とでも思っているんだろう。  そんなふうに見られたところで、痛くもかゆくもない。  むしろ痛快だ。  自分だけくたびれてるとでも思っているんじゃないだろうな。  うちらだって大変なんだ、ばーか。  友人たちと一緒だと、強気でいられる。  店内に流れている音楽が眠気を誘う。  こんなふうに、明日のことを気にせずにいられる時間は、限定されたものなんだ。  美代子はいつも思ってしまう。  わたしたちは、学校を卒業したら、働かなければならないし、結婚しなければならないし、子供を産まなくてはならない。  そして育てなくてはならない。 「ねばならない」に理由はいらない。  理由はあるのだけれど、理由よりも、その強制のような力のほうが先立ち、考える以前にぼんやりとした気持ちにさせる。  当たり前にしなくちゃいけないこと。  はじめっからきまっていること。  人類とはそういうふうに歴史を作っていったのです、以上。  それらはとても強くて、立ち向かう気も起きない。  そもそも、立ち向かう気は一切ないのだけれど。  べつに働きたくないわけではない。  結婚したくないわけでもない。  子供だって嫌いじゃない。  なのに、「当たり前」と言い切られると、跳ね返したくなる。  自分の身体が、弾力があって、小さい頃に観たディズニーアニメのようだったらいいのに。  どんどんと、人の言葉や、見えない圧を吸収していく。  いつだってそのせいで、怠い。  来年までに、どうも将来のことを決めなくてはならないらしい。  それは変更可能なのだろうか。  もし許されるならば、適当に決めても、あとで修正できないだろうか。  一度決めたらもうリセットなんてできないなんて、息苦しい。  そうだ、わたしはいま、とても息苦しい。  この場も、友達との付き合いも、自分の立場も、帰る家も、すべて。  まるでぬるい水のなかにいるみたいだ。  水のなかで呼吸するすべを知らない。  だから酸素を得るために、ときどき水面にあがらなくてはならない。  同じテーブルについている二人は、そんなふうに思ったことはないんだろうか。  友達の笑顔は癒されるけれど、でも少しだけ、苦しい。
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