猫の足音

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1人の王様が君臨していた時代の、とある国、とある村での話です。村の1番隅っこの、小さな家畜農家を営む家族に拾われた、年を10ほど数える孤児の少年がいました。 彼の名はヨセフ。彼は生き物や自然を愛する心豊かな少年で、特に共に暮らす家畜達を、家族のように愛していました。 一方で、この少年を拾った家の人々には、彼のような心を持った人間はおりませんでした。むしろ、自給自足の生活がやっとであったこの時代には、彼のように純粋な感性を持つものは少なかったのです。 しかしながら、この家畜農家の1人息子であるエミルは、とりわけ異質な存在でした。 エミルは少年と同じぐらいの年ではありましたが、彼はヨセフと正反対の感性を持っていたのです。 エミルはいじめっ子で、時折ヨセフに暴力を振るいました。しかし、立場の弱い孤児であるヨセフは、静かに耐えることしか出来ずにいたのです。 ある朝のことです。少年はいつものように1番に起きると、家畜小屋へ動物たちの世話をしに行きました。するとどこからか「みゃあ」と、か細い声が聞こえてきました。 少年が驚いてあたりを見渡すと、家畜用に敷き詰めてあった藁の上に、首を窄めてこちらを覗き込む、傷だらけの黒い猫の姿がありました。 少年が猫に近づこうとすると、猫は怯えて逃げようとしたので、少年は猫に何か食べさせてやろうと思い、猫の視線の先に家畜用の餌を少量ばらまきました。 黒猫は、初めは警戒し、餌に近づこうとはしませんでしたが、しばらくした後、ヨセフが何も危害を加えないと見てとると、背中の毛を逆立てながらも餌を食べ始めました。 随分と腹を空かせていたのでしょう。黒猫はものすごい速さで餌を平らげると、少年に向かって再度「みゃあ」と、今度は大きな声で鳴いたので、少年は再び餌を取り出し、少量を猫にやりました。 黒猫は初めと同じようにヨセフを警戒していましたが、今度はすぐに餌の前まで近づくと、ゆっくりと食べ始めました。 黒猫は少年が一歩でも動くとたちまち逃げようと毛を立てるので、少年は黒猫の怪我を見てやることは出来ませんでしたが、黒猫が元気そうに餌を平らげる姿に心から安堵しました。 ちょうど黒猫が餌を食べ終わった頃のことです。いつもはこのような日も昇りきらない朝に、少年以外誰も家畜小屋を訪れることがありません。しかし、この日は運悪く、珍しく早起きであったエミルが、黒猫の鳴き声に気づいて小屋に入ってきたのです。 エミルは黒猫を見ると、近くにあった斧を掴み上げ、ヨセフに言い放ちました。 「こんな不吉なものは殺してしまえ!」 この時代、猫、とりわけ黒猫は大変不吉な存在だったので、エミルが言うことは残酷なことに、殆どの民衆が賛同するものだったのです。 ところが、それに反してヨセフは黒猫を庇おうとしたので、エミルは痺れを切らして、持っていた斧をヨセフの背後にいる黒猫に目掛けて振り下ろしました。 しかし、身軽な体を持つ黒猫は、器用にそれをかわすと、一目散に小屋の外へ逃げ出し、それからヨセフたちの前に現れることはありませんでした。 それから10日後のことです。ヨセフとエミルが小屋の近くで雑用をしていると、今度はどこからか、白い鳥が1羽飛んできて、2人の目の前の小屋の屋根に止まりました。 その鳥は美しい白い羽を持っていましたが、見た目はどう見てもカラスで、それに気づいたエミルは幸運の象徴であると大層喜び、黒猫を見つけたときとは打って変わって、餌をくれてやろうと家畜用の餌をばら撒き、白いカラスを捕まえようとしました。 しかし、カラスは餌には目もくれず、じっと2人を見つめると、さっそうと飛び去って行きました。 ヨセフは、10日ほど前エミルが黒猫を殺そうとしたことを思い出し、白いカラスが現れた時との違いに、静かな怒りと、同時に哀れみを感じたのでした。 ところが、その日の夜のことです。少年がいつものように部屋にいると、村の人々が何やら騒がしくしていました。ヨセフは不思議に思い、家の外へ出ると、村のすぐ側の山々から、轟々と火が湧き出ていたのです。 村は険しい山々の麓にあったので、最早簡単には逃げることは出来ません。その間にも、大火はまるで生き物のように地を這い、民家に迫っていました。 少年が拾われたこの家畜農家の一家たちも、見たことのないほどの山火事の規模に愕然とし、ヨセフに家畜たちを離してやるように命令すると、出来るだけ火の届かない場所に逃げようと、隣街の方角へ逃げて行きました。 しかし、村の近くのこの街も安全ではなく、火は街にも届く勢いで大きくなっていました。 ヨセフはすぐに家畜小屋へ向かうと、牛などの大きい動物から、鶏などの小さな動物まで、全ての動物を離してやりました。 少年が家畜小屋にいるうちに村の人々は次々に街の方へ逃げて行き、炎はさらに大きくなって、もう村の中心部まで侵入しておりました。 やっとの思いで家畜を逃してやると、もう村にはヨセフ以外誰1人としておらず、炎はヨセフの目の前まで迫っておりました。 もう街にも逃げられなくなってしまったヨセフでしたが、バキバキと燃える家々の音の中に、ふと不思議な音が混じっていることに気が付きました。それはただ燃える木材の音というよりも、動物か何かがその焦げた木々の破片を踏む音のように、ヨセフには聞こえたのです。 "もしや、あの時の黒猫か" 不思議とそう思い立ったヨセフは、炎の中にあの猫が取り残されているのだと思い至り、走ってその音のする方へ向かうと、やはりその炎の中から「みゃあ」とあの黒猫の声がしました。 しかし、どこを見ても黒猫の姿は見えません。それでも確かに、あの黒猫のものである朗らかな足音がヨセフの耳に届いたので、彼はその足音についていくことにしました。 黒猫が進む方向は、街とは正反対の方向で、すでに炎に包まれた民家や木々の間を抜けていきました。 しかし不思議なことに、その黒猫が進む狭い道は、全く火の手が回っていませんでした。 ヨセフは必死に猫を追いかけましたが、とうとうその姿を見ることはできず、気がつくと火の回っていない隣の山へでておりました。 星の綺麗な夜でした。 ヨセフが街を出られたことに驚いていると、彼のすぐ後ろから再び、「みゃあ」と聞こえたので、彼は後ろを振り返りました。 後ろを振り返ると、遠くで先ほどの村人たちが逃げて行ったあの街が、大きな炎に轟々と包まれている姿だけが、ヨセフの目には写っていました。
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