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薔薇荘では、泉森警部補による事情聴取が続いている。
これで何度目になるだろう。冬薔薇夫妻の部屋を泉森が訪問するのは。それまで臥せったきり嘆いてばかりだった夫人が、ようやくソファに座った。青ざめた顔だったが、正常な瞳をしている。隣に座る冬薔薇氏が、夫人の手を握りしめていた。
亨が亡くなってから、夫人と話をすることが叶ったのは初めてである。
泉森はごく事務的に、夫人と向き合う。夫人は赤く腫れた目で、じっと視線を受け止めていた。
「息子さんには恋人がいたと聴いていますが、奥様はご存じでしたか」
ずばりと泉森が聞いた。
夫人は一瞬目を伏せた。冬薔薇氏が気づかわしげに夫人の表情をのぞき込んでいる。
知らなかったのだ、と、泉森はその様子を見て直感する。
亨に恋人がいたとして、両親に打ち明けることはしていなかったのだ。
「気の優しい子でした」
小さい声で、夫人は言った。声が震えている。
「恋人がいても、家のしきたりを破ることができなかったのでしょう。だからといって、決してその恋人を軽んじていたわけではない。あの子はそういう子です」
夫人は両手で顔を覆った。指の隙間から、大粒の涙がこぼれる。
嗚咽交じりに夫人は呟く。
「同じ息子でも、雄志と亨はまるで違う。亨は冬薔薇を継ぐより、美しい薔薇を育て、静かに過ごすような子でした」
雄志。
数年前に冬薔薇家を出奔したという長男は、薔薇荘の全てを亨に背負わせて闇から逃げた。
泉森はじっと夫人の様子を見つめてから、おもむろに懐から封筒を取り出した。緑の封筒は封が切られている。冬薔薇亨は殺害されたのだが、おそらく自分の運命を悟っていた。
封筒には、遺書のような内容の手紙が折りたたまれて入っている。
冬薔薇夫妻に見せるより先に警察が中身を確認した。開封された亨の手紙を、泉森は夫妻に返さねばならなかった。
これを、と手渡されて、冬薔薇氏は緑の封筒の中身を読んだ。
黙読の後、静かに目を伏せ、手紙を妻に渡した。
夫人は震えながら手紙を読む。ぼたぼたと、涙が紙の上にこぼれた。
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愛しているからこそ、断ち切らなくてはならない。
僕は蔓にとらわれた、冬薔薇のしもべ。
君は、ここに来てはならなかった。
君が血で汚れたのは、僕の罪。
君を逃がしてあげるために、僕ができる最後のことは、別れを告げること。
もし君が絶望し、僕を血に染めたとしても、どうか振り向かず逃げてほしい。
僕を憎み恨むことで、君はより遠くに離れることができるのだから。
甘美な冬薔薇の呪縛から。
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「亨君から、恋人に向けての手紙でしょう」
泉森は言う。
「彼女はこれを、読んではいないーー」
ひそかな逢瀬を繰り返した、亨と恋人。
逢瀬の様を見られた時、殺人が起きたと思われる。
安藤みか。
緑野香。
冬薔薇久美。
田村あい。
冬薔薇まつ。
手を下したのは、亨ではないと思われる。
「血で汚れた」恋人を、亨は愛し続けたのだろう。恋人はしかし、その手を血で染め続けるようになった。亨はそれを、自分の罪だと思っていた。
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「どうして、別れるなんて言うの」
亨から別れを告げられた時、恋人は絶望したのに違いない。
裏切られた、という思いが衝動を生み、愛しているはずの亨を手にかけてしまった。
誰が悪いのーー彼女は自問自答したのかもしれない。
こんなことになったのは、花嫁が来てしまったから。
花嫁さえ来なければ、こんなことにはならなかった。
永遠に、甘い逢瀬は続くはずだったのに。
「許さない、許さない」
思い知れば良い。
絶望を味わわせてやるのだ。
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「その、恋人というのは、誰なのです」
長い沈黙の末、冬薔薇氏は問いかける。
泉森は太った顔を太い首にうずめながら、目を鋭く光らせた。
恋人、すなわち一連の殺人事件の犯人。
冬薔薇の花嫁となった月子の、一番近くにいた人物。
この人物だからこそ、まるで月子が亨を殺したかのように演出することができた。
きっと、月子に同情するかのように寄り添い続けてきたのだ。心の中で、どす黒い憎悪を燃やしながら。
河合すみ。
「逃げられないよう、森を包囲しております」
泉森は静かに言う。
「奴は、絶対に、逃げることはできないでしょう」
冬薔薇夫妻はおびえたように、顔を見合わせた。
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