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わたしはどうなっても構わないんです。いいえ、もちろん感謝しかありません。「それ」のお陰で生きてこられたようなものですから。
だけどもう、あの子は立派に成長しました。
思えばわたしは、あの子を産み育てるために、この世に生まれてきたようなものです。あの子を産むまでの人生は、長い長い序章のようなものでした。
だけどもう、あの子はわたしの手を離れようとしています。ええ、わたしがいなくても、もう歩いて行ける。強い子、賢い子に育ってくれました。
だからこそ、行かせてはならないのです。
あの子を逃がしてあげなくてはーーああ、それには助けていただかないと。どうぞ、どうぞ見逃してください。ええ、事の後、わたしはどうなっても。
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アルバイトから帰宅した時、あばら家から漏れ聞こえてきた声のせいで、月子は家の中に入ることができなかった。
母の軽四が停まっている。母がヘルパーの仕事の合間に家に戻り、家事をしてゆくのは、いつものことだ。
けれど、こんなに長々と、電話をしているなんて初めてだった。
誰と、話しているのだろう。
何を、話しているのだろう。
月子は玄関にかけた手を引っ込める。
夕暮れは濃く暗く、まるで血の色だった。
母の電話は長く、同じことばかり繰り返していた。母は泣いており、電話の相手をかきくどき、己の哀れを主張するようだった。
「あの子」とは、月子のことに違いない。
逃がしてあげなくては、と、母は言う。月子はもう一人で歩いて行ける、だからこそ、と。
月子は玄関をそっと離れた。
町営住宅は古くひび割れたブロック塀に囲まれている。つつじの植え込みには蜘蛛の巣が張っている。夕暮れ時には細かな羽虫が群れになった。
薔薇荘の花嫁に、行くべきではないのかもしれない。
月子は玄関を振り向く。未だ母の声が微かに漏れ聞こえる。電話はいつまで続くのだろう。
クラスの子たちは皆、玉の輿だと羨んでいる。
安藤みかに至っては、妬みの目を見せた。
だけど、原田は眉間を曇らせ、母はこうして泣いている。
「もう、二度と戻ってくることができない・・・・・・」
会ったこともない夫。薔薇荘の人々。
一体、どうして自分に白羽の矢が立ったのだろう。今更のように、月子は首をかしげるのだった。
(今なら、まだ、間に合う)
大剛に、断りの返事を返せば良い。
そうしたら、婚姻の話はなくなり、月子は今までと同じ生活を続けることができる。
一瞬、強く思ったけれど、月子の視界に、母の乗る古い軽四が映った。ヘルパーをするために中古で買った車。乗るとすごい音がして、ハンドルを右に切るたびにハウリングのような軋みが鼓膜を貫いた。車のあちこちにはぶつけたり、ぶつけられたりした跡が残る。それを修繕する費用を捻出する余裕は、ないのだった。
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