38人が本棚に入れています
本棚に追加
月子は揺れるエンジのスカートを見下ろす。
母のヘルパー仲間の娘が着ていた制服。入学式の数日前、母は頭をさげて、お古をもらってきた。シミが浮き、痩せてたるんだ口元に笑みを浮かべて、母は言ったーー良かったわね月子、ほら、これで制服を着て通えるわーー月子は太らなかった、高校に入学してから今に至るまで。背丈は少し伸びたから、スカートの裾はわずかに短くなった。けれど、ウエストは相変わらず、余ってぶかぶかしたままだ。
月子は、太れない。
太っても、制服を買いなおす余裕などないことくらい、知っているから。
「あっ、あれアタシがあげた制服~」
上級生の群れの中から、はすっぱな声が聞こえたことがあった。月子は自分が指さされ、あざ笑われているのを感じた。
「わかるわよ。だって、襟のところが破れて縫った跡があるもん」
きゃはははは、まじ~。
ってか、アンタ前、あんなに痩せてたっけぇ。
うっさいわねー、思春期は太るのよー。みんなそうじゃない。出るとこ出る分、制服なんかすぐ小さくなるでしょっ。
歩いてゆく集団。遠ざかる話声。慣れている。入学したばかりの月子は、一人で歩く。短く切った髪の毛では、顔を隠すことすらできない。
「えー、じゃあアンタさ、また太って今着てるの着られなくなったらぁ、あの子にあげたらいいんじゃなーい」
「なにそれ。まるでヤドカリみたーい」
きゃはははは。きゃははははは・・・・・・。
道行く人々が振り向いて、月子を頭のてっぺんからつま先まで眺めてゆく。
制服だけではない。スニーカーも、学生かばんも、人からのもらいものばかり。誰かがぞんざいに扱い、傷だらけになり、よれよれになった持ち物を、月子は大事に使う。せめて学校に通う間、これを持ちこたえさせなくてはならないから。
(何が面白いのよ)
笑われるのは平気だった。月子は口を引き結んで歩く。
だけど、誹りが自分ではないところに向いた時、気丈な心が引き裂かれそうになる。
「あの子のお母さんさ、ヘルパーの仕事、なんでも引き受けるんだってー」
「うっわ、それって貧乏だから」
「そうそう」
どうして、嫌なこと、聞きたくないことは、遠い場所からでも耳に飛び込んでくるのだろう。
月子はこぶしを握り締める。
「八百屋のおじいちゃん。認知症ひどいけどカラダ元気で、えっちなんだって。ヘルパーさん、みんな嫌がるんだけど」
あの子のお母さんは、率先して行くんだってー。タップリ二時間、うちに入って出てこないんだってぇ。
月子は、自分の中に蓄積された暗い記憶を思う。
自分のことはいい。耐えられないのは母への中傷。
町の人は余所者には冷たい。いつまでたっても迎え入れてはもらえない。母は永久なるスケープゴートなのだ。
(行かなくては、ならない)
どうあっても。薔薇荘の花嫁として。
まるで母は人質だ。月子さえ、薔薇荘に嫁げば、母の生活は保障される。今よりもっと豊かに生きることが叶うのだ。
なにより、もうこれまでのように、馬鹿にされ、後ろ指さされることはなくなるだろう。なんといっても、薔薇荘のお屋敷に嫁いだ娘の、母親なのだから。
古い車の、えぐられた傷。
夕日が深い赤で辺りを染めてゆく。
ちろちろと虫が鳴き始め、どこからともなく枯れ葉が舞い落ちた。
(行くのよ)
衣擦れの音がして振り向くと、ブロック塀の陰から、ちらっと近所の人の姿が見えた。
詮索好きな目で、玄関に入らないままぶらぶらしている月子を眺めている。
月子はさりげなく会釈すると、改めて玄関に向き直った。漏れ聞こえていた母の電話の声は、もう止んでいる。月子は深呼吸をし、静かに玄関の引き戸を開いた。
最初のコメントを投稿しよう!