第一部 花嫁、純潔のまま屋敷に捧げられ

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 月子は揺れるエンジのスカートを見下ろす。  母のヘルパー仲間の娘が着ていた制服。入学式の数日前、母は頭をさげて、お古をもらってきた。シミが浮き、痩せてたるんだ口元に笑みを浮かべて、母は言ったーー良かったわね月子、ほら、これで制服を着て通えるわーー月子は太らなかった、高校に入学してから今に至るまで。背丈は少し伸びたから、スカートの裾はわずかに短くなった。けれど、ウエストは相変わらず、余ってぶかぶかしたままだ。  月子は、太れない。  太っても、制服を買いなおす余裕などないことくらい、知っているから。  「あっ、あれアタシがあげた制服~」  上級生の群れの中から、はすっぱな声が聞こえたことがあった。月子は自分が指さされ、あざ笑われているのを感じた。    「わかるわよ。だって、襟のところが破れて縫った跡があるもん」  きゃはははは、まじ~。  ってか、アンタ前、あんなに痩せてたっけぇ。  うっさいわねー、思春期は太るのよー。みんなそうじゃない。出るとこ出る分、制服なんかすぐ小さくなるでしょっ。  歩いてゆく集団。遠ざかる話声。慣れている。入学したばかりの月子は、一人で歩く。短く切った髪の毛では、顔を隠すことすらできない。  「えー、じゃあアンタさ、また太って今着てるの着られなくなったらぁ、あの子にあげたらいいんじゃなーい」  「なにそれ。まるでヤドカリみたーい」  きゃはははは。きゃははははは・・・・・・。  道行く人々が振り向いて、月子を頭のてっぺんからつま先まで眺めてゆく。  制服だけではない。スニーカーも、学生かばんも、人からのもらいものばかり。誰かがぞんざいに扱い、傷だらけになり、よれよれになった持ち物を、月子は大事に使う。せめて学校に通う間、これを持ちこたえさせなくてはならないから。  (何が面白いのよ)  笑われるのは平気だった。月子は口を引き結んで歩く。  だけど、誹りが自分ではないところに向いた時、気丈な心が引き裂かれそうになる。  「あの子のお母さんさ、ヘルパーの仕事、なんでも引き受けるんだってー」  「うっわ、それって貧乏だから」  「そうそう」  どうして、嫌なこと、聞きたくないことは、遠い場所からでも耳に飛び込んでくるのだろう。  月子はこぶしを握り締める。  「八百屋のおじいちゃん。認知症ひどいけどカラダ元気で、えっちなんだって。ヘルパーさん、みんな嫌がるんだけど」  あの子のお母さんは、率先して行くんだってー。タップリ二時間、うちに入って出てこないんだってぇ。  月子は、自分の中に蓄積された暗い記憶を思う。  自分のことはいい。耐えられないのは母への中傷。  町の人は余所者には冷たい。いつまでたっても迎え入れてはもらえない。母は永久なるスケープゴートなのだ。  (行かなくては、ならない)  どうあっても。薔薇荘の花嫁として。  まるで母は人質だ。月子さえ、薔薇荘に嫁げば、母の生活は保障される。今よりもっと豊かに生きることが叶うのだ。  なにより、もうこれまでのように、馬鹿にされ、後ろ指さされることはなくなるだろう。なんといっても、薔薇荘のお屋敷に嫁いだ娘の、母親なのだから。  古い車の、えぐられた傷。  夕日が深い赤で辺りを染めてゆく。  ちろちろと虫が鳴き始め、どこからともなく枯れ葉が舞い落ちた。    (行くのよ)  衣擦れの音がして振り向くと、ブロック塀の陰から、ちらっと近所の人の姿が見えた。  詮索好きな目で、玄関に入らないままぶらぶらしている月子を眺めている。  月子はさりげなく会釈すると、改めて玄関に向き直った。漏れ聞こえていた母の電話の声は、もう止んでいる。月子は深呼吸をし、静かに玄関の引き戸を開いた。
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