第一部 花嫁、純潔のまま屋敷に捧げられ

11/20
前へ
/79ページ
次へ
**  「もう、二度と来てはいけないよ」  濃い緑のシャツを纏った少年は、そのまま森の色に溶けてしまいそうだった。  美しく優し気な印象が残るが、どうしても、彼の顔立ちを思い出すことができない。  (梢から差し込む光の逆光。森の薄暗さの影になっていて)  月子は今でも時々、あの日の夢を見る。  幼い日、安藤みかに誘われて森に入り込んだ時のことを。薔薇荘の森は禁忌の場所だ。あれほど母に禁じられたのに、はじめてできた友達と遊ぶことになって、なにもかも忘れていた。  絶対に、入ってはなりません。二度と、戻ってこられなくなるから。  月子はやはり、寂しかったのかもしれない。  この町に来たのは、未だ赤ん坊だった頃だ。物心がつき始めた頃には、月子は常に独りぼっちだった。  保育所の中でも、月子と遊ぶ子はいなかった。無邪気に近づいてきて、一日だけ一緒に遊ぶことがあっても、翌日には親から何か言い含められたのか、掌を返したかのように遠のく。  「余所者だから」  町の人々は、がちがちに凝り固まっている。  それほど外からの風を嫌うのは何故か。  月子はしかし、疑問に思う間もなく、追い立てられるように成長した。なぜ、どうしてという質問を、疲れ切った母に投げかけることはできなかった。    そういうものなのだ、と割り切ってしまえば、仲間外れも白眼視も、どうってことはないーーと、思っていた。幼心にも。  けれど、安藤みかから遊びに誘われた時、思いがけないほど月子は高揚した。世の中が光り輝いたような気がした。安藤みかが、世界一素晴らしい優しい女の子で、この人と出会えたことは運命だ、と思い込むほど、我を忘れた。  (友達が、できた)    友達。この、甘美なる存在。  いつも月子は友達に憧れていた。特別な仲良し。一緒にいて、心が通い合っていて、なんでも話すことができて。    けれども。  「安藤さん、安藤さあん」  どこにいるの。ねえ、返事をして、安藤さあああああん。  かくれんぼと偽られーーそうだ、あれは悪質な悪戯だ、どうしてそれに気が付かなかったんだろうーー深く危険な森に迷い込んでしまった、月子。  友達の安藤みかは、月子が目を閉じて数を数えている間に、そうっと家に帰ってしまっていた。  ざわめく風の音が感覚を狂わせて、月子は、友達が森の中にいると思い込んだ。ざわざわ、ざわ。  ざわ。  ぎゃっ、ぎゃっ、ぎゃあああああっ。  獣の声が森の空気を切り裂く。たんたん、たあんーーあれは多分、銃声だった。薔薇荘の使用人が害獣を退治するために、森の中で狩りをする。だからなおさら、森の中は危険区域なのだった。  (怖い怖い、怖い)  ぐるぐると緑の梢が回る。悪夢はぐにゃぐにゃと長い腕を伸ばし、ゴムの幕のように月子を閉じ込める。小学二年生の、あの日の中に。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加