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初めて訪れてから、一週間経った日の晩、大剛は改めて月子の元を訪れた。
香は血の気のない顔をして大剛を迎え入れ、雨漏りの跡が目立つ和室で粗茶を出した。他に良い服を持たぬ月子は、エンジ色のセーラー服を纏い、堅苦しく正座した。
大剛から薔薇荘に嫁ぐ意思を問われ、月子は「お受けします」とだけ答えた。両手を畳の上にそろえ、大きな瞳で大剛を見上げ、そして頭を下げたのだった。
「ウッ」
襖の前に座していた香が、奇妙な声を立てて口を押えた。嗚咽を堪えているのだ。
大剛は一瞬、ちらっと視線を走らせたが、特に香の様子に注意を払うことはなかった。月子の返事を得ただけで、大剛は目的を果たしたのだ。
「婚姻届につきましては、後日、お屋敷に入っていただいてから記入していただくことになります」
感情を込めない声で、大剛は告げる。
「おめでとうございます。緑野月子様。わたしども、使用人一同、若奥様を心よりお待ち申し上げております」
若奥様。
月子はうつろな気持ちで、その言葉を噛み締めた。
大剛に聞きたいことはいろいろとあったが、なるべくオブラートにくるみ、そつなく言葉にしなくてはならない。それには頭を使わなければならないのだが、香が肩を震わせているのが視界に入り、どうにも集中できないのだった。
薔薇荘の花嫁になる。
冬薔薇月子と名乗ることになる。
「屋敷でもお迎えの支度をいたします。明後日の晩、二十時に車を寄越しますので、月子様はただそれにお乗り頂けば宜しゅうございます」
二十時。
暗闇の中、月子は花嫁として見知らぬ屋敷に迎え入れられる。
見送りは許されない。香とも、その時、この家の前で別れることになる。
学校は。
バイトは。
月子が口にする前に、大剛は淡々と続けた。
「学校には、明日朝早く、薔薇荘の方から連絡をいたしまして、手続きもさせていただきます。今、月子様がアルバイトをしておられることも存じておりますが、そちらについては明日中に、月子様ご自身でお話くださいませ」
薔薇荘の名前を出せば、急な退職でも不満を示すことはあるまいーー大剛は暗に、そう言っている。
「万が一、不都合なことがありましたら、どうぞ薔薇荘の大剛宛てにご連絡をください」
と、大剛は眉一筋動かさずに言った。
月子の脳裏に、原田の彫の深い目鼻立ちが鮮やかに浮かんだ。原田さん、と心の中で呟いた。
バイトを辞めることは、先日原田に告げたばかりだ。けれど、いざ明日、これでもう来られなくなることを言わなくてはならないと思うと、急に心細くなった。
思いがけず、瞼の裏が熱くなった。
揺れる思いを持て余しながら、月子は氷のように固まり、大剛の言葉をただ聞いていた。
「特に必要なものはございません。お洋服も、日用品も、あらゆるものは薔薇荘で用意させていただきます」
大剛は話しながら、そろそろと立ち上がるそぶりを見せる。伝えるべきことは伝えた、というところだろう。大剛の表情は全く読めなかったが、この家に長居する気がないのは、明白だった。
「お金のほうですが、第一回目は明日、お母様の口座に送金させていただきますので」
事務的な冷たさを帯びた声で、大剛はさっと背後に向き直り、襖の前で震えている香に言った。
「今後、毎月、十日に振り込ませていただきますので、宜しいでしょうか」
顔を上げない香に大剛は言う。
「正式な書類は、追って、書留を送らせていただきますので、速やかにご記入いただき返送していただくようお願い申し上げます」
(結婚というよりも人身売買みたいだ)
他人事のように、月子は聞いていた。
月子が嫁ぐことで、香は一人きりになる。娘とはもう、自由に会うことはできなくなる。その悲しみを補填するために、薔薇荘から見舞金が支給されるという。
月、三十万。
大剛は最初の訪問時、包み隠すことなく、ずばりと金額まで月子の前で告げていた。
母の苦労を間近で見てきた月子が、その金額を知ることで、見知らぬ薔薇荘に嫁ぐ決意を固めるだろうことを、大剛は見越していたのだろうか。
月々の見舞金は、香が老いて亡くなるその日まで支給され続ける約束となる。
だから、今後、香は、過酷な仕事をしなくても良いし、もっと良い住居に引っ越すことも可能だ。
(ママ、元気でいて)
月子は膝の上で手を握りしめ、震える香を見つめる。胸を張り、眉をひそめて。
しかし、それにしても、月子はせめて、一つだけ知りたいことがあった。
聞きたいことは山のようにあったが、今はどうにも思考がまとまらず、うまく言葉に紡げない。数ある疑問は、要約すれば「どうして自分が選ばれたのか」という一言になる。
大剛には、その根本的な疑問を受け付けない空気が漂っていた。
香に事務的な話をしてから、大剛は月子に向き直った。
聞きたいことがあれば、今お聞きなさい、と言いたげだった。
月子はやっとのことで口を開いた。
「せめて、夫となる方のお名前と、できれば写真を見せていただきたいのですが」
と、月子は言った。
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