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大剛は厳しい眉間を解き、少し口元をほころばせた。
「ご存じなかったとは大変失礼しました」
と、大剛は断ってから、おもむろに「月子様を花嫁に迎えられる若様のお名前は、冬薔薇亨様です。お年は、23歳でございます」
冬薔薇亨。
りょう。
もちろん知らない名前だった。
「お写真については、もし月子様がご覧になりたいというのであれば見せるようにと預かってきたものがございまして」
と、大剛は懐から、濃紺の袱紗のようなものを出し、そこから一枚のスナップを取り出した。月子はそっと写真を受け取った。
写真は、冬に撮影されたものだろうか。
純白のバルコニーには雪が積もっている。さぞ寒いだろうと思われる中で、赤や黄色、桃色の大輪の蔓薔薇が壁越しに咲き誇っていた。
(作り物に違いない)
中央に映る、その人物よりも先に、月子は薔薇を眺めてしまった。真冬の風景の中に咲き誇る鮮やかな薔薇は、なんとも奇妙で不自然な感じがした。
「お体が弱い方でございまして。こちらは、五年前、体調が良いときに撮影された写真でございます」
大剛は言った。
きっちりとしたテーラードスーツに身を固めた、細身の青年。
整った顔立ちは優し気で、瞳はどこか遠くを見つめている。青ざめた顔色は、そのまま雪に溶けてしまいそうだ。
彼は蔓薔薇に指を絡め、微笑み、少し首をかしげていた。まるで、「こんな写真を撮ってどうするんだい」とでも言いたげな様子に見えた。
月子はじっと、それを見つめた。
優しい、色素の薄い、瞳。鼻。口。輪郭。
写真を持つ指が微かに震える。
月子の中で、フラッシュバックする、あの、場面。
「もう、二度とここに来てはいけないよ」
**
森の王子のような少年。
もしや、自分を花嫁にと望む相手は、彼ではないのかと、月子は心の深い部分で感じていたのだろうか。だから、ほとんどためいらいなく、この結婚話を受け入れたのだろうか。
(いいえ)
月子は唾を飲み込み、動揺を隠した。そのスナップを大剛に返そうとしたが、「いいえ、お持ちくださいませ」と、押し返された。大剛の目は決して笑っておらず、表情には甘さのかけらもなかった。
妻となるならば、夫の姿を知らねばならないだろう。
今、月子は写真で亨を知った。だからもう、他人ではない。知らない相手に嫁ぐわけではない。なので、もしや月子の中で不安がる思いがあるとしたら、それは甘えである。
大剛のまなざしは、ぞっとするほど厳しかった。
(いいえ、わたしは何も期待したわけじゃない。ただ、ママに幸せになってほしかっただけ)
夫となる相手が、あの日、自分に手を差し伸べてくれた少年であるなんて。
そんな妄想は、一瞬たりとも考えてはならないのだった。
では、明後日に。
大剛はさっと立ち上がると、打ち震える香をちらっと眺めてから、玄関を出た。
月子が慌てて飛び出した時、大剛はもう、通りで待たせていた黒いクラウンの後部座席に乗り込んでいた。
運転手は、いかめしい制服姿で帽子をかぶっており、横顔でちらっと月子の姿を見たようだ。ハンドルを握りながら素早く会釈をし、月子がそれに返す間もなく、アクセルを踏んだ。
夕暮れから夜に移る暗さの中、闇に紛れるように、クラウンは発進した。
ブブウ。
微風が巻き起こり、制服のスカートが揺れた。
月子はもう一度、スナップ写真を見ようと思った。本当に彼が、あの日の少年なのか、わずかな可能性を検分したいと思った。
けれど、その余裕を月子に与える間もなく、玄関の奥から香の押し殺した鳴き声が響いてきたのだった。
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