第一部 花嫁、純潔のまま屋敷に捧げられ

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**  月子は、朝、学校に行く前に、原田へラインを送った。  薔薇荘行きが急に決まり、今日でもう、アルバイトが最後になる。結婚についてはあらかじめ伝えていたが、これほど早くバイトを去ることになるとは月子自身も思っていなかったことだ。  原田からはすぐに返信が来た。  了解した、バイト料を用意しておくから、寄ってほしい。明日の支度もあると思うから、今日は仕事はしないで良いーーという内容だった。    (原田さん)  月子は胸が締め付けられる思いで、原田のアイコンをーーピンクの薔薇が笑顔で笑っているイラストだーー見つめた。  あの、錆びついたテナントビルの中の、薬くさい部屋を、懐かしく思った。中学生の時から、学校が引けたらすぐにあの部屋を目指し、原田の指示で黙々と働いてきた。  香と生活してきたこのあばら家と同じくらい、あるいはそれ以上に、原田のいるローズメディカルを名残惜しく感じた。  「いつでも連絡していい」と、原田は言ったが、その言葉にべったり寄りかかり、甘えたくなる自分を、月子は厳しく戒める。    学校が終わったら、すぐにローズメディカルに寄り、原田に今までのお礼を言わなくては。  雇っていただいたこと。なにも分からない自分に、ひとつひとつ教えてくれたこと。お給料をちょっとずつだけど、努力に応じて上げ続けてくれたこと。  原田の存在は、思いがけないほど大きかった。  「月子へ」  台所に行くと、朝食の支度が乗ったテーブルに、母からの手紙が乗っている。  早朝からヘルパーの仕事に出たのだろう。起きた時に、家に母がいないことは、よくあることだ。使い古しの茶封筒に、広告の裏に書き付けた手紙が入っている。  パンをかじりながら、月子は手紙を広げる。ぶるぶると震えるような細いボールペンの字。母の筆致は、いつからか頼りなくなった。特に疲れているときは手の震えがそのまま文字を揺らし、何を書いてあるのか、読むのに苦労することがある。  「今日は、帰りません。明日も、いません」  と、手紙には記されていた。  たぶん、母は泣きながら綴ったのだろうと、文字の表情を見て、月子は思った。  折りたたまれたチラシ裏の手紙には、千円札が三枚、包まれていた。母の財布に残っているすべての紙幣だろう。  声に出してそれを言ったり、ましてや文字に残すことは、許されない。香は無言のうちに、月子に逃げよと告げている。この三千円で、電車を何本も乗り継ぎ、できるだけ遠いところに、今日中に逃げてしまえと言っている。  けれど、その一方で、香は薔薇荘から振り込まれる最初の三十万を、失うつもりはないはずだ。  たぶん、今日、月子が学校に行っている間、ヘルパーの仕事の合間に、香は銀行に飛び込み、振り込みを確認するだろう。その場で引き出し、現金を懐深くにしまい込んでしまうだろう。    自分は、月子が逃げたことは知らなかった。  仕事をしていて、月子が逃げたことなんか、分からなかった。あいすみません。  お金は、もう、使ってしまった。だから、返せない。もうしわけございませんーー母の頭の中が想像できた。涙を流しながら書かれた手紙を読んで、月子は逆に、乾いた気分になった。  月子が逃げたら、来月から振り込まれるはずの、三十万は、もちろんなくなる。けれど、今振り込まれる三十万は、香のものだ。  (詐欺みたい)    月子は食事を切り上げた。母からの手紙をカバンにしまった。そして、少し考えてから、三千円をテーブルの上に置き、箸置きで押さえた。
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