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「緑野さぁん、一緒に帰ろ」
よく覚えている。小学二年生の初夏、突然話しかけられた。
それまで、月子に近づいてくる子はいなかった。話しかけられたこと自体が嬉しくて、すぐに月子は「うん、帰ろう」と答えた。そして、即座に、友達ができたと信じた。
「緑野さん、素敵な場所があるの。遊びに行こう」
広々とした草むら。小さな野花が点々と咲き、目の前にはどこまでも広がる、童話の国のような森があった。
かくれんぼしましょ、緑野さんが最初は鬼ね。十数える間に隠れるから。
友達とかくれんぼをする。
そんな当たり前のことが、月子には新鮮でならなかった。嬉しくて、有頂天だった。
いち、にい、さあん。
数える声も弾んでいた。ざざ、ざあああああ。森からの風があらゆる音を打ち消し、安藤みかの気配すら消した。
「安藤さん、どこにいったの、安藤さあん」
(そうだ、これで最後なのだから)
小学二年のあの日、どうして安藤みかは、月子を置き去りにしたのか。
聞いてみようと月子は思った。
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「楽しかったねー、今まで」
学校が終わり、薔薇荘の森の側の野原に向かう間も、みかは屈託なくしゃべり続けた。
辺りは美しい夕暮れに包まれ、風は心地よかった。道はどんどん静かになってゆき、車どおりも減った。
案外、町中から遠い場所にあるのだと、歩きながら月子は思った。バイト先には前もって連絡しておいたが、これでは思ったよりも遅くなってしまいそうだ。
何かを語り合う時間すら、ないかもしれない。まだ到着しないか、まだか、と、月子は内心、焦り始めている。
「緑野さん最初見たとき、なんて綺麗な子かと思ったのよ。ほんとに」
並木道に人気はない。
そうだ、この道だった。もう間もなく目指す野原にたどり着く。どことなく当たりが植物くさいのは、森が近いからだろう。
月子はちらちらと周囲を見た。夕暮れは進行しており、もともと閑静な町はずれなのが、今は静寂の沼に沈んでいる。
「細くて、顔も素敵で、声も優しくて。勉強もできるし、スポーツだって、体育の時間には誰にもひけをとらなかった」
決して目立っていなかったけれど、実はいつも、緑野さんが一番だった。みんな、本当はそれを知っていたのよ。
ぽてっとした体つきのみかは、身長も低い。ころころと転がるように歩く。
野原に到着した。みかは、コンビニの袋を手に提げている。お菓子が入っているのかもしれない。
薄闇が空気に溶けている。
ざざ、ざ。くるぶしに触れる草が風にそよいだ。加えて、ざわざわと、暗く広がる森からも葉音が届く。ぎゃっ、ぎゃーっ。夜に向けて活動を始める鳥の鳴き声が細く聞こえた。
まだ濃厚なオレンジ色が空の端には残っており、未だ夜にはなりきらなかった。
その、最も謎めいた薄暗闇の中で、みかの表情は、いつもと違って見えた。
「ねえ、緑野さん、本当に、薔薇荘の人とは、なんの関りもないの」
みかの目は陰になっていて、いまいち感情が読めない。声には笑みが混じっているように思う。月子は風に目を細めながら「本当だよ」と答えた。
「え、じゃあ、薔薇荘の人は、緑野さんが美人で、頭も良いというだけで、花嫁に抜擢したの」
と、みかは言った。声は相変わらず微笑んでいたが、言葉にとげがあった。月子はそろそろ、本題を切り出したいと思った。
「安藤さん、ねえ」
言いかけた言葉に覆いかぶさるように、みかは、低く、まるで風に紛れ込ませるように、呟いたのである。
「不公平よ、信じらんないわ」
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