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「お友達は、ここには来ていないよ」
不意に静かな声が落ちた。
涙をこらえていた月子は、ぎょっとして顔を上げた。いつの間にか目の前に人が立っており、濃い緑の逆光になった顔は、下から見上げてもよく分からない。
手を差し伸べてくれながら、その人は落ち着いた声で、
「君が十数えている間に、家に走って帰ってしまったんだ」
と、告げた。
月子は目を見開いた。その言葉の意味を理解するまで少し時間がかかった。
安藤みかは、かくれんぼしようと言っておきながら、月子を置き去りにして帰った。
そして、その人は、今までずっとそれを、黙って見ていた。
月子は立ち上がり、ぐっと唇を噛んだ。
その人は月子よりは背が高かったが、まだ子供のようだ。男の子であることは間違いがないようだが、さっきから風が強く、あまりにも梢がせわしなく影を揺らすので、彼の顔がはっきり見えないままだった。
薄いグリーンのTシャツを纏った彼は、不思議だった。森の精かもしれない、と、月子は思った。
「道が分からなくなってしまったの」
と、月子は言った。
彼は、相変わらず顔が緑の光の揺らぎに隠れ、はっきり見えない。静かに微笑む口元や、やさし気な一重の目元、長い前髪が顔にかかる様子はわかった。
「本当はね、君はここに入ってはいけなかったんだよ」
と、彼は言った。
「ここから出してあげる。けれど、もう二度と来てはいけないよ」
すっと、手を握られた。長く冷たい指が、やさしく月子の右手を掴んだ。
触れられたとたん、月子は疲れを忘れ、痛かった足がしゃきんと立った。彼は走り出し、月子も引っ張られて走った。どんどん森の風景が通り過ぎ、まるで月子は風になったようだった。
あんなにぐるぐる同じところを歩いていたのに、あっけなく森の出口が見えた。
薄暗い緑の世界に差し込む明るい光。
それが見えたところで、彼は足を止めた。彼は振り向いたが、今度は森の外から差し込む明るい光の逆光になり、顔はますます見えなくなった。
「もう、会えないの」
月子は自分でも思いがけなく、そんなことを口走った。
すると彼はくすっと笑った。そよ風が鼻頭をなでるような笑い声だった。
「名前を教えてよ」
と、彼は言い、
「月子」
と、月子は名乗った。
その時、タンタアン、という、鋭い音が森を貫いた。
月子ははっとして周囲を見回し、音がどこから聞こえてきたのか確かめようとした。
「あなたは」
言いながら月子は振り向いた。
そこに立っているはずの彼は、嘘のように姿を消していた。それこそ、かくれんぼのように。
タン、タアン!
また、音が鳴り響いた。
月子は怖くなって、力いっぱい走った。森の外に出ても、しばらくは走り続けた。丘を越え、車が走る大きな道に出て、やっと月子は足を止めた。ぜいぜいと息が切れ、汗が次々と噴出した。
空は薄暗い。
車はどれも忙しそうで、どこかの家から味噌汁の匂いが流れてきた。
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空に夕暮れの赤みが残る昏い時刻、一番星を見上げると、未だに月子は思いだす。
お屋敷の森と、謎めいた少年のことを。
それは誰にも打ち明けることのない、月子だけの大事な秘密。
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