第一部 花嫁、純潔のまま屋敷に捧げられ

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 えっ。  月子は聞き返したが、次の瞬間、もうみかは屈託なく口元に笑みを浮かべており、子犬がじゃれつくように言った。  「ねっ、前みたいにさ、かくれんぼしよう。最後の思い出に。お願い」  月子は困惑した。時刻は迫っていた。これ以上、ぐずぐずしていては、ローズメディカルに迷惑をかけてしまう。  いくらなんでも、営業時間を過ぎてまで、原田を待たせるわけにはいかなかった。    「ねっ、ほんのちょっと。すぐに終わるわ。こういうのって儀式みたいな感じだし。友情の始まりがかくれんぼだったんだから、お別れもかくれんぼで」  ねっ。  そういうと、安藤みかは、月子の顔の前に手をかざし、早く目を閉じるよう促した。それから、いち、にい、と楽し気に数え始めたのだった。  「ほら、数えて。その間にわたしは逃げるわ」  抗いようもなく、月子は目を閉じて数えた。さん、し、ごお。  「ねえ安藤さん」  きゅう、と数えてから、月子は大声で叫んだ。みかがどこにいても聞こえるような大声で。  「教えてほしいの。小学二年の時、かくれんぼで、どうしてわたしを置き去りにしたの」  ふふふ、緑野さんまだあ、早く早くう。  みかの声が聞こえてくる。確かに森の中からだーーああ、やはりみかは、森に行ったのか、入ってはいけないと言ったのにーー月子は目を開けた。暗がりは深くなり、目の前に広がる森は、黒い影を浮き上がらせている。  「じゅう」  月子は数え終えると、小走りで森に向かった。森に入ったとして、そう奥には行っていないだろう。早く探し出して、ローズメディカルに行かなくては。    「ねえ安藤さん、わたし用事が」    森の入り口で、月子は思わず立ちすくんだ。  夕暮れの森はほとんど暗闇だった。梢から差し込む光は途絶え、足元はうっすらとぬかるんでいる。  しかし、すぐそこから「こっちよぉ」と、みかの声が呼んだ。月子はため息をつくと、歩を進めた。  「安藤さん、ねえ、教えて。あなた小学二年のかくれんぼの時に」  言いかけたとき、月子は背後から強く押されて転んだ。とっさに手をついた先に、地面はなかった。あっと悲鳴を上げる間もなく、月子は穴の中に転がり落ちていた。  「安藤さん」  幸い、どこかを打つこともなく、月子は穴の中にうまくしりもちをついていた。闇の中から見上げると、丸い穴の向こうに黒い梢が揺れ、そこから微かに光る小さな星が見えた。    「そうね、わたし、緑野さんのことが、ずっと憎らしかったからかもしれない」    不意に頭上から声が落ちた。  闇の中で、猫の目のように、みかの双眸が輝いていた。みかは目を細めて笑っており、無様に穴に落ちた月子を見て楽しんでいるようだ。  「助けて」  と、月子は叫んだが、みかはすっと立ち去った。    「誰も来ないわよ。明日、お迎えが来る時まで、ずっとそこにいればいい。結婚から逃げたってことになれば、緑野さん、立場がなくなっちゃうわね」  ふふふふ、うふふ。  みかの笑い声が遠のいた。月子は息をのんだ。そうだ、ここは森の中だ。誰も助けには来ないだろう。  幸い、カバンが一緒に落ちていた。中にスマホがあるはずだ。慌ててカバンの中を探り、スマホを取り出したが、圏外になっていた。月子は絶望した。  安藤みかは、自分を憎んでいた。  最初から、友情などなかった。  「どうして嫌いだったのよ」  月子は叫んだが、それに答える声はない。  かわりに、どこか遠い場所で、「きゃーん」という、悲鳴が響いた。きゃあああ、きゃああああん、きゃああああああっーー安藤みかが叫んでいる。何があったのか、月子には知る由もなかった。  (ああ・・・・・・)    月子は穴の中でもがいた。なんとか立ち上がり、土の壁をよじのぼらなくては。立ち上がることさえできれば、指先は土の上に届くだろう。けれど穴は狭く、お尻が完全にはまっている。月子は必死にもがいたが、やがてすうっと意識が遠のき始めた。  恐怖と、神経の衰弱が、月子を苛んだ。  ぐるぐると目の前が回る嫌な感覚が月子を襲う。みかの悲鳴は長い間続いていたが、やがてふうっと聞こえなくなった。そして月子の意識も、揺れながら薄れたのである。
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