第一部 花嫁、純潔のまま屋敷に捧げられ

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**  「また、来てしまったんだね」  それは月光だったろうか。透明な光を背景に、その人は逆光となっていた。  彼の声は低く穏やかで、あの日の少年の声がベースとなっている。確かに同一人物だ、と、月子は思う。ただ、年月の分、その声は深みが増し、大人の男のものになっていた。  月子は手を握られて上に引きずり上げられ、その後、軽々と抱き上げられた。体が雲のようにふわふわと揺れ、運ばれるのを感じる。ぎゃっ、ぎゃっ、ぎゃあっーー夜の獣の声が遠くで響いていた。  「安藤さんが」  朦朧とした意識の中で、どれが現実か、はたまた夢なのか、判別がつかない。確かに月子は、安藤みかの悲鳴を聞いたーーような、気がしていた。森のどこかで、安藤みかは叫び、助けを求め、そして唐突に静寂が訪れたのだ。  あれからどれほど時間が経ったのか。月子は目を懸命に開こうとした。自分を助けてくれた王子の顎が見える。ふわりと、濃い植物由来の香りが漂った。  これは、懐かしいにおい、知っているにおい。  月子は目を凝らそうとしたが、あまりにもふわふわと体が揺れるので心地よく、眠気には勝てなかった。次第に瞼は垂れ下がる。浮上しかけた意識は遠のき始める。  「その子は、また家に戻ってしまったのかもしれないね」  と、彼は言った。ああ、やっぱりこの人は、あの時の少年だ。月子は確信する。ゆれゆれ、ゆれる腕と足。彼は力持ちだ。月子を抱いたまま、すたすたと進んでゆく。  まるで、この森を知り尽くしているかのように。  「安藤さんは森に入ったの。でも入り口だったからきっと」  大丈夫だと、思う。  月子は呟いた。  一瞬、彼は息を飲んだようだった。ぼそりと、「方角が分からなくなるからなあ、家に帰っているならいいけれど」と言ったようだ。  ああ。  その、柔らかい喋り方。声の調子。懐かしかった。月子は何故か、泣きたくなった。そして、聞きたいと思った。    貴方が、冬薔薇亨さんですか、と。  「君を家まで送っていこう。これからは、信じてもよい人と、そうではない人を、ちゃんと見極めてゆかなくては駄目だよ」    彼の言葉が遠くなる。  月子は深い眠りの水の底に沈んだ。月光が波紋となりまばゆく揺れて、あたりのものは全て、曖昧になった。  ばたん、と、車のドアがしまる音がして、月子はとうとう、意識を失ったのである。
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