第一部 花嫁、純潔のまま屋敷に捧げられ

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**  月子が目を開いた時、そこは慣れ親しんだ町営住宅の畳の上だった。  泥のついたエンジ色のセーラーのままの姿で、やはり昨夜の件は夢ではなかったのだと思い知る。  頭が少し痛かった。  鼻の奥には、あの時かいだ強い香りがこびりついている。起き上がると、ずきんと足が痛んだ。  大したことはなかったが、くじいてしまったらしい。膝にはすりむき傷ができている。  畳の上には、品の良い小花の絵が描かれた便せんが一枚落ちており、そこには「今夜、薔薇荘で待っています」と走り書かれていた。紫色のインクはみずみずしく、筆致は優雅だった。この文字を書いた人の、長く美しい指先まで思い浮かぶようだった。    月子はゆっくりと起き上がり、しいんとした家の中を歩いた。  香は不在であり、家の中の空気は生ぬるく淀んでいる。テーブルの上には家の鍵が置かれていた。多分、昨日、ここまで送ってくれた人が、月子のカバンから鍵を取り出したのだろうと思われる。    空気を入れ替えようと窓を開いた時、ふわりとカーテンから、独特なにおいが漂った。  森のにおい。  植物のにおい。  それにしては、強いにおい。    鼻の奥にこびりついたにおいと同じものが、家の中にわずかに残っている。おそらく、「彼」の残り香だ。  もっと吸い込んで確かめたい、と、月子は思う。なにかがもどかしかった。このにおいに感じる懐かしさ、居心地の良さ。パズルのピースがはまるようではまらない、奇妙な感じ。  けれど次の瞬間、頭の深い部分がずきんと痛んだ。  窓を開いてから、とりあえずお湯を沸かそうとガス台に向かった時、勝手口の扉の下の隙間に、なにかが差し込まれているのが見えた。  かがみこんで拾い上げると、それは給与明細と、紙幣の入った薄い封筒だった。封筒には「ローズメディカル」とハンコが押されており、「今までありがとう、ごくろうさまでした、お幸せに」と、ボールペンで走り書かれている。  原田が、夜の間にここまで来てくれたのだ。  昨日、月子が店に来なかったから。  月子は手早く封筒の中身を確認し、それをテーブルに置いた。  昨日の朝、母が手紙と一緒においていった三千円と一緒に箸置きの下に重ねておいた。ほんのわずかなバイト料だったが、もう月子には必要のないお金だった。  月子は、少し考えてから、箸置きの下においた封筒を再度、手に取った。そして、お金だけ取り出して、また箸置きの下に戻すと、空になった封筒だけ、大事に畳んでポケットに入れた。  原田にお詫びのラインを送らねばならないだろう。  月子は薔薇荘のことを何も知らない。身一つで来るようにと言われているが、まさかスマホの使用まで禁じられるだろうか。  籠の鳥となることは覚悟の上だが、知り合いと一切連絡が取れなくなるのは、やはり怖かった。  (原田さん、最後に会いたかった)  ローズメディカルの、漢方のにおいが漂う薄暗い部屋の奥で。  原田は今日も一人で仕事をするのだろう。もう、月子はバイトには行かないのだ。あの店に入ることは、二度とないのだ。
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