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第二部 冬の薔薇、その香り抗いがたし
「いっそ、彼に決められてはいかがなのです」
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この眠気はどうしたのだろう。
もう、とっぷりと暗かった。月子は迎えに来たクラウンの後部座席に乗らねばならぬ。
エンジ色の制服にアイロンをかけなおし、髪の毛を綺麗にといて、精いっぱい見栄え良くしたつもりだった。迎えに来た大剛は、家に香がいないことを気にしなかった。大剛は月子しか見ておらず、「お迎えに参りました」と恭しく頭を下げたのだった。
慣れ親しんだ家、台所や和室、洗面台。
名残を惜しめばきりがなかった。香の不在は、もしかしたら幸運だったかもしれない、と、月子は思った。
もしここに母がいたら、醜態を晒しただろう。泣きわめくのは自分か、母かーー多聞、母のほうだろう、と月子は思う。だからこそ、余計に、ここに香がいなくてよかったと思う。
ガスを消し、すべての部屋を消灯する。ちゃんと戸締りを確認した。
きのうまで自分が使っていた布団一式は、きれいに畳んで押し入れに入れてある。疲れ切って帰ってくる香を思い、一人分の寝床を整えておいた。さらに、冷蔵庫にはレタスをちぎったサラダにゆで卵をスライスしたものも入れておいた。
(ママ、元気で)
はいていたラバーソールが玄関に残っているので、そっと、靴箱の奥に入れた。
帰宅した香がそれを見て、悲しくならないように。ここに入れておけば、当分、目に触れることはないだろう。
「本当に、なにも持たなくて良いのですか」
せめて、着替えの下着だけでも。月子は念のため、小さな巾着に一組そろえていたのだが、大剛はちらっとそれを見ると、軽く頸を横に振った。なにもいりません、それはこちらに置いてゆかれませ、と、大剛は言った。月子はそれに従った。
ポケットの中にはスマホと、アダプタがごろんと入っている。多分、先端が少し覗いているだろう。大剛の鋭い目が見逃すわけがないのだが、それについては大剛はなにも触れなかった。
「衣類については、薔薇荘のほうですべて用意いたしております。若奥様にふさわしいものを、身に着けていただかねばなりませんから」
と、大剛は言った。
さぞかし高級なものを着ることになるのだろうと、月子は窮屈に思った。
さあさあとせかされるように乗り込んだクラウンの後部座席は、夢のように乗り心地が良かった。
月子の横をふさぐように、大剛がどっしりと座った。ばたんと扉が閉められた時、月子は、もう自分が別の世界に足を踏み入れたことを感じた。
(ママ)
今更のように心細さが込み上げたとき、ふあっと車のライトが角を曲がり、通りにさしかかるのを感じた。バックガラスに乱反射する黄色いライトを振り向き、月子は目をすぼめた。
出しなさい、さあ、と、大剛が低い声で運転手を促す。クラウンは滑るように動き始めた。
「母です」
月子は体をねじりながら叫んだ。
暗い街灯の光でも、その車が母のボロ車であることくらい分かる。仕事を終えて、香が今、帰宅した。
ああ。
もしかしたら香は、今夜、帰るつもりではなかった。だけど、ぎりぎりのところで気持ちが負けて、月子を追って来たのではないか。
ぷー、と、後ろの車がクラクションを鳴らす。
「月子、逃げなさい」
という合図だったのか
「幸せにね」
という意味の音だったのか。
月子はほろほろと涙をこぼした。大剛はその様を淡々と眺め、すっと白いハンカチを差し出したのだった。
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