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あの、独特なにおいのせいだろうか。
クラウンに揺られているうちに意識が遠くなり、月子は眠っていたらしい。
車の中は心地よく、いつまでも乗っていたいほどだったが、気になる香りが漂っていたと思う。
はじめて嗅いだものではない。このにおいを、いったい自分は何度嗅いだろうと、月子は思う。
懐かしいにおい。青臭く、柔らかく、かいでいると楽しい気持ちになるような。
それは小さいころに香ったことがあったように思うし、それどころか日常的に生活の中でかいでいたような気もする。
ただ、車の中のにおいは強烈で、強制的に嗅がされているような感じがした。
「眠いわ、眠ってしまう」
ぐるぐると渦巻くような眠りに吸い込まれながら、月子はうわごとを呟いた。
「それでよいのです、若奥様」
大剛がゆっくりと、低い声で答える。
必死で縋りついていた現実の岸辺。手が力尽き、月子は流れに身を任せてしまう。ゆらりゆらり。クラウンの乗り心地だろう。
そのうち月子は誰かに抱え上げられ、どこかに運ばれたようだった。
丁寧に、優しく、そうっと。
ふわっと雲の上のような場所に体が横たわり、呼吸が突然、楽になった。すうと空気を吸い込むと、頭の奥が奇妙にすがすがしくなるようだった。
喜びに満ちている。そうだ、わたしは何を悲しんでいたのだろう、ここに嫁いだのだから、ママは毎月三十万円をもらうことができるのだし、なにも悪いことはないじゃないのーー月子は打って変わって楽観的な気持ちになる。
そのまますうすうと眠ってしまった。
しかし、時折、頑なに抵抗する月子の芯の部分がぐっと浮き上がり「寝ている場合では」と強く主張する。その時だけ、月子はひどく不快に感じ、また心地の良い楽園のような眠りに戻ろうと焦るのだった。
「いっそ、彼に決められては」
その会話が漏れ聞こえたのは、そんな瞬間のことではなかったか。
部屋の壁を隔てた場所で、誰かと誰かが話をしている。深刻な声で。
「仮面の中は、誰も知らないのですから、どうにでもなりますでしょう」
これは、大剛の声。
低く無感情で淡々としている。
彼女と喋っているのは誰なのだろう。
ゆらゆらと眠りの沼の水面が揺れる。
心地よい香りがますます強く漂う。
月子は抑え込まれるようにして、夢の世界に沈みこんだ。
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