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若奥様、と優しい声が聞こえた。
ゆらゆらと瞼を通して光が踊る。頭痛がするような、しないような、ぼうっとするような心地が良いような、ぬるま湯につかっているような奇妙な感覚。
すがすがしい寝ざめとは言えなかった。月子は無理やり目を開いた。見開いた目の真上はドーム状の白い天井であり、光が踊るように見えたのは、窓から差し込む朝日が反射し、丸い模様を作っているからだった。
ちょろちょろと水音がする。その音に合わせるように、天井で踊る丸い光がゆらゆら踊った。
月子はゆっくりと上半身を起こした。ふかふかと、沈み込むような素晴らしいベッドである。ふと見ると、昨晩纏っていたえんじ色のセーラー服ではなく、純白のネグリジェを着せられていた。
(着替えさえてもらっていたのに、気づかなかったなんて)
肌触りが違う。おそらく、下着まで新しいものに替えられているのだろう。
思わず月子は顔を赤らめた。
さらさらと衣擦れの音がする。ワインレッド色の小柄な背中が部屋の隅で働いていた。
品よく白いエプロンを着けており、細い腰の後ろで蝶結びにしてある。メイドさんなのだろう。さっき、月子のことを若奥様と呼び、さりげなく起こしてくれたのは、この人だったか。
そっと月子は素足を絨毯の上に下ろした。ふかふかとくるぶしまでめり込むような上質なカーペットだ。深い色合いの敷物に薔薇の模様が織り込まれている。
月子は部屋を見回した。
自分が寝ていたベッドは天蓋付きだった。レースのカーテンが四隅で縛られており、そのカーテンにも薔薇が刺繍されている。枕カバーや掛布にも薔薇が刺繍されていた。
ドーム型の天井は白かったが、よく見ると細やかな掘り込みが施されており、そこにも無数の薔薇が描かれている。
アーチ形の窓には、薔薇が活けられた花瓶が飾られている。
飾り棚にも薔薇の飾り物が置かれてあった。
そういえば、昨日から嗅ぎ続けている、青臭いような、甘いような、独特な香りは、薔薇のものなのかもしれない。
ちょっと頭を動かすと、微かに頭痛が走った。
「おはようございます、若奥様」
ワインレッドの服に白いエプロンを締めたメイドさんが、大きな目を見張って微笑んでいた。
マントルピースの上の花瓶の水を入れ替えていたらしい。もちろんそこにも薔薇が飾られている。
白い薔薇ばかりだ、この部屋に飾られているものは。
月子は自分が纏っているネグリジェを見下ろした。裾に白い糸で薔薇の刺繍が施されていた。
「河合すみと申します。若奥様付けとなりました。よろしくお願いします」
と、メイドさんはお辞儀をした。
薔薇荘の住人について、もっと奇妙で、近寄りがたい人々を想像していた。すみを見て、月子はやっとのことで微笑んだ。
二十代前半から半ばくらいの年合いに見える。そんな若い人が、こんな場所に閉じこもってよく働けるものだと思うが、すみは明るく笑っていたし、仕事が楽しそうに見えた。少なくとも、いやいやここにいるわけではなさそうだった。
「月子です。いろいろ教えてください」
と、月子は言った。すみは芝居がかったようにスカートを両手で広げて、お辞儀をしてみせた。
「本当は、大剛さんが直々にお世話するはずだったんですが、若奥様がとてもお若い方ということで、一番年齢が近い、わたしに声がかかったんです」
すみは言った。ぺらぺらとよく喋る。あまりにも普通の女の子なので、月子は唖然としていた。
「なんでもお話してくださいませね。奥様も、心配しておられましたもの」
すみはにこにこと言う。
「薔薇荘の外から嫁がれて、最初はすごく戸惑うものだと、奥様は仰ってます。本当にお優しい奥様です。まだお会いしておられないのですよね。奥様も、旦那様も、朝食はご一緒に摂られますよ」
奥様。旦那様。
働きの鈍い頭で、ぼんやりと月子は考える。
薔薇荘の主人と、その妻。つまり、月子にとっては舅、姑ということになる。
朝食の席で、ということは、今から月子はそこに向かわねばならないということか。
すみは軽やかな足取りで真っ白い衣装ケースを開き、そこからワンピースを取り出していた。白を基調としたその服は、月子がこれまで腕を通したことがないような、高級そうなものだった。
「若奥様のスリーサイズの情報は頂いておりまして、取り急ぎ、お体に合うものをご用意させていただいたのですが」
気づかわし気にすみは言う。
「お気に召しますかどうか」
スリーサイズが知れているのはギョッとしたが、そういえば纏っているネグリジェも、その下に着ている下着も、体にぴったりしていた。
すみからワンピースを受け取ると、そっと胸に当ててみる。膝下丈の、上品なものだ。フレアスカート部には、やはり薔薇の刺繍がさりげなくほどこされている。
「かわいい」
と、月子が言うと、すみは嬉しそうにした。
「ネックレスとイヤリングもありますので。髪の毛も、セットいたしますので、お洋服をかえられたら、ドレッサーにおかけくださいませ」
と、すみは言った。
ドレッサー。
ぼんやりと部屋を見回すと、窓の側に、レースのカバーがかけられた丸いものが見えた。
自分専用の鏡台なんて、夢にすら見たことがない。月子はほんの数秒の間、服を胸に当てたまま動くことができなかった。
まるで、シンデレラのお城に招かれたみたいだった。
「朝食は七時半でございます」
すみに言われて、やっと月子は動いた。ワンピースをベッドに置くと、ネグリジェのひもをほどき始める。
白い壁にかけられた、薔薇のふちどりのある白い時計。時間は、あまり残されていなかった。
ああ、そういえば。
「あの、制服はどこに」
ふと思い出して、月子は言ってみる。
エンジ色のセーラー服。
あの中に、携帯もアダプタも入っていたはずだ。
すみはドレッサーのカバーを外していた。
アクセサリーの支度をしながら、なんでもなさそうに「ご安心くださいませ。お洋服はお洗濯しております」と言った。
スマホとアダプタのことを聞こうかと思ったが、すみがフンフンと楽し気に鼻歌をうたいはじめたので、次の言葉が出なくなった。
(持ち物を、勝手に処分されるような感じではないもの)
月子はそう思い、後で聞くことにした。
とにかく今は、身支度をして、舅と姑に挨拶をしなくてはならないのだ。
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