第二部 冬の薔薇、その香り抗いがたし

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**  若奥様、と優しい声が聞こえた。  ゆらゆらと瞼を通して光が踊る。頭痛がするような、しないような、ぼうっとするような心地が良いような、ぬるま湯につかっているような奇妙な感覚。  すがすがしい寝ざめとは言えなかった。月子は無理やり目を開いた。見開いた目の真上はドーム状の白い天井であり、光が踊るように見えたのは、窓から差し込む朝日が反射し、丸い模様を作っているからだった。  ちょろちょろと水音がする。その音に合わせるように、天井で踊る丸い光がゆらゆら踊った。  月子はゆっくりと上半身を起こした。ふかふかと、沈み込むような素晴らしいベッドである。ふと見ると、昨晩纏っていたえんじ色のセーラー服ではなく、純白のネグリジェを着せられていた。  (着替えさえてもらっていたのに、気づかなかったなんて)  肌触りが違う。おそらく、下着まで新しいものに替えられているのだろう。  思わず月子は顔を赤らめた。  さらさらと衣擦れの音がする。ワインレッド色の小柄な背中が部屋の隅で働いていた。  品よく白いエプロンを着けており、細い腰の後ろで蝶結びにしてある。メイドさんなのだろう。さっき、月子のことを若奥様と呼び、さりげなく起こしてくれたのは、この人だったか。  そっと月子は素足を絨毯の上に下ろした。ふかふかとくるぶしまでめり込むような上質なカーペットだ。深い色合いの敷物に薔薇の模様が織り込まれている。  月子は部屋を見回した。  自分が寝ていたベッドは天蓋付きだった。レースのカーテンが四隅で縛られており、そのカーテンにも薔薇が刺繍されている。枕カバーや掛布にも薔薇が刺繍されていた。  ドーム型の天井は白かったが、よく見ると細やかな掘り込みが施されており、そこにも無数の薔薇が描かれている。    アーチ形の窓には、薔薇が活けられた花瓶が飾られている。  飾り棚にも薔薇の飾り物が置かれてあった。  そういえば、昨日から嗅ぎ続けている、青臭いような、甘いような、独特な香りは、薔薇のものなのかもしれない。    ちょっと頭を動かすと、微かに頭痛が走った。  「おはようございます、若奥様」  ワインレッドの服に白いエプロンを締めたメイドさんが、大きな目を見張って微笑んでいた。  マントルピースの上の花瓶の水を入れ替えていたらしい。もちろんそこにも薔薇が飾られている。    白い薔薇ばかりだ、この部屋に飾られているものは。  月子は自分が纏っているネグリジェを見下ろした。裾に白い糸で薔薇の刺繍が施されていた。  「河合すみと申します。若奥様付けとなりました。よろしくお願いします」  と、メイドさんはお辞儀をした。  薔薇荘の住人について、もっと奇妙で、近寄りがたい人々を想像していた。すみを見て、月子はやっとのことで微笑んだ。  二十代前半から半ばくらいの年合いに見える。そんな若い人が、こんな場所に閉じこもってよく働けるものだと思うが、すみは明るく笑っていたし、仕事が楽しそうに見えた。少なくとも、いやいやここにいるわけではなさそうだった。  「月子です。いろいろ教えてください」  と、月子は言った。すみは芝居がかったようにスカートを両手で広げて、お辞儀をしてみせた。  「本当は、大剛さんが直々にお世話するはずだったんですが、若奥様がとてもお若い方ということで、一番年齢が近い、わたしに声がかかったんです」  すみは言った。ぺらぺらとよく喋る。あまりにも普通の女の子なので、月子は唖然としていた。  「なんでもお話してくださいませね。奥様も、心配しておられましたもの」  すみはにこにこと言う。  「薔薇荘の外から嫁がれて、最初はすごく戸惑うものだと、奥様は仰ってます。本当にお優しい奥様です。まだお会いしておられないのですよね。奥様も、旦那様も、朝食はご一緒に摂られますよ」    奥様。旦那様。  働きの鈍い頭で、ぼんやりと月子は考える。  薔薇荘の主人と、その妻。つまり、月子にとっては舅、姑ということになる。  朝食の席で、ということは、今から月子はそこに向かわねばならないということか。  すみは軽やかな足取りで真っ白い衣装ケースを開き、そこからワンピースを取り出していた。白を基調としたその服は、月子がこれまで腕を通したことがないような、高級そうなものだった。  「若奥様のスリーサイズの情報は頂いておりまして、取り急ぎ、お体に合うものをご用意させていただいたのですが」  気づかわし気にすみは言う。  「お気に召しますかどうか」  スリーサイズが知れているのはギョッとしたが、そういえば纏っているネグリジェも、その下に着ている下着も、体にぴったりしていた。  すみからワンピースを受け取ると、そっと胸に当ててみる。膝下丈の、上品なものだ。フレアスカート部には、やはり薔薇の刺繍がさりげなくほどこされている。    「かわいい」  と、月子が言うと、すみは嬉しそうにした。    「ネックレスとイヤリングもありますので。髪の毛も、セットいたしますので、お洋服をかえられたら、ドレッサーにおかけくださいませ」  と、すみは言った。    ドレッサー。  ぼんやりと部屋を見回すと、窓の側に、レースのカバーがかけられた丸いものが見えた。  自分専用の鏡台なんて、夢にすら見たことがない。月子はほんの数秒の間、服を胸に当てたまま動くことができなかった。  まるで、シンデレラのお城に招かれたみたいだった。  「朝食は七時半でございます」  すみに言われて、やっと月子は動いた。ワンピースをベッドに置くと、ネグリジェのひもをほどき始める。  白い壁にかけられた、薔薇のふちどりのある白い時計。時間は、あまり残されていなかった。  ああ、そういえば。    「あの、制服はどこに」  ふと思い出して、月子は言ってみる。  エンジ色のセーラー服。  あの中に、携帯もアダプタも入っていたはずだ。  すみはドレッサーのカバーを外していた。  アクセサリーの支度をしながら、なんでもなさそうに「ご安心くださいませ。お洋服はお洗濯しております」と言った。  スマホとアダプタのことを聞こうかと思ったが、すみがフンフンと楽し気に鼻歌をうたいはじめたので、次の言葉が出なくなった。    (持ち物を、勝手に処分されるような感じではないもの)  月子はそう思い、後で聞くことにした。  とにかく今は、身支度をして、舅と姑に挨拶をしなくてはならないのだ。
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