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第一部 花嫁、純潔のまま屋敷に捧げられ
「非常に貧しい時代がありました。飢饉が続き、人々は飢え苦しみ、そこに戦の影響もあり、ほとんど地獄絵図だったようです」
火の粉があがり、崩れる小屋の群れ。
痩せこけて腹ばかり膨れた人々は、道端の死体を食らうしかなかった。
容赦なく襲い掛かる戦火。殿様はこの地を守る力もなく、人々は敵の刃にさらされる。餓鬼のような村人たちは馬の踏みつぶされ、まだ僅かに見栄えがする娘たちは荒れた兵たちの餌食となった。
この地は悲惨なありさまだった。
人々は生きることに絶望した。
「これははっきりとした文献が残っていないので、具体的にどういったものかは分かっていないのですが、この地の絶望を救うために、宣教師が布教に来たようです。おそらく、当時、処罰の対象だったキリシタンの一派だったのではと思われます。受け継いだ村人たちはカタコンベのようなものを作り、熱心にそれを信じていたようです」
長い間、人々は「それ」に縋って生きてきた。やがて町は少しずつ力を取り戻した。人口も徐々に増えていった。
山奥の過疎地ではあったが、戦国時代、江戸時代、やがて維新の時代を経ながら、ひっそりと生き永らえ、滅亡を免れた。
人々が生きる力を失わず、根強くこの地に残り続けたのは、いにしえの時代、宣教師によってもたらされた「それ」のおかげだった。
ロザリオを握り、十字架に祈り、定期的に秘密の集会を開き続けた、「それ」の教えのおかげだった。
「形は確かに、キリスト教に似ていたようですが、まあ、当時、各地でひっそりと息づいた隠れキリシタン文化が、それぞれ特徴を持っていたように、この地の文化も、特殊なものだったようです」
観音像に似せたマリア像だったり。
一見、キリスト教ではないような、独特な様式を持っていたのではないか。
しかしそれは、第二次世界大戦の時、空襲に遭いすべてが失わわれてしまった。
カタコンベも、祀られていたご神体も、古い文献も、きれいさっぱりなくなってしまったので、今ではもう、なにも分からなくなってしまった。
僅かに昔のことを知る高齢者も、どんどん亡くなっている。
だからもう、町を滅亡から救った例の文化が、一体どんなものだったのか、知るすべはない。
それは、町の小学校で、高学年になるまでに、必ず授業で教えられる、地元の歴史だ。
教わった子供たちは決まって、どことなく不気味な「それ」のことを話し合う。町のどこかにきっと今でもある、大昔のカタコンベ。
「探しに行こうぜ」
と、男の子たちは一度は言う。
どこに「それ」があるかというと、きっと、おそらく、あそこである。
すなわち、町の誰もが近づかない、薔薇荘のお屋敷の敷地の何処か。
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