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月子の母、緑野香は、ごく若いころに月子を産んだ。月子に父親がいたことはーー生物学的にはもちろん存在するだろうがーーなく、香は貧しいシングルマザーとして月子を育て上げた。
香は仕事のつてを探し、あちこちさ迷った。不況の中、住むところにすら困る有様で、月子が赤ん坊の頃、香はやむなく一晩、野宿をしたことすらあった。
世間は冷たく、自分のことで精いっぱいの人々で満ちていた。役所ですら貧しい母子に温かい目を向けてはくれなかった。保護の手はなかなか降りず、本来、この母子のような者のために用意されているはずの、ごく安価な家賃で住める公営住宅は、将来のための資金繰りのために居を構える人々に占領されていた。
学が無く、資格もない香がありついたのは、介護ヘルパーの仕事である。ただし、その当時母子が住んでいた都会には、赤ん坊を抱えた香を迎え入れてくれるステーションはなかった。何件か巡った先の小さなヘルパーステーションで、「辺鄙な場所だけど、ヘルパーさんを探しているところがあるから紹介しようか」と言ってもらい、香は飛びついた。
「ちょっと変わったところのようだけど。なんというか、世間と隔絶しているような町で、一度住んだらなかなか出てゆくことができないし、逆に、一度出てしまったら、もう二度と戻ってくることができないほど、よそ者に対して厳しいらしいよ」
こじんまりとしたステーションの事業主は、自身もいつ介護を受ける身になるか分からないような高齢だった。
丸々とした体をピンク色のポロシャツがぱつんぱつんに包み、丸い眼鏡の奥から目をすぼめて履歴書の文字を追っていた。香が年齢的に若いこと、乳飲み子を抱えた身の上であることに深く同情してくれたものの、やはりそこでも、赤ん坊を抱えた女を雇う余裕はなかったのだった。
「そりゃヘルパーは不足しているけれど、赤ちゃんがいては、仕事に障るでしょう。どう、辺鄙な町でもよかったら紹介してあげるから行ってみたら」
そこなら、町営住宅は余っているだろうし、保育所も満員ではない。
この都会にいるよりは、きっと良いと思うのだけど。
香には身寄りがなかった。
面倒を見てくれる実家もなければ、月子の父親にあたる男とも連絡は途絶えている。しかしそれは、見方を変えれば、あと腐れがないということにもなる。
香は、「辺鄙で排他的な変わった町」のヘルパーステーションで仕事をすることを、その場で快諾した。老いたステーション事業主は、同情といたわりがこもったまなざしで香を見ると、座ってお茶を飲むように勧め、赤ちゃんにお乳をあげたかったら、今はヘルパーはみんなで払っているから、遠慮なく授乳するよう言った。
その言葉に甘えて、さっそく香が胸をはだけて月子に乳をやっている側で、老事業主は電話をかけ、「これこれこういう女性がヘルパーを志望しているんだけど、受け入れてもらえまいか」という旨の話を始めた。
電話はかなりの長話となり、お乳を飲んで月子が寝てしまってからも、声高に会話は続いていた。
香ははらはらしながら待った。まもなく電話は終わり、丸眼鏡の老事業主は満面の笑顔で振り向くと、親指と人差し指で丸を作って見せたのだった。
「話をしておいてあげたから、後は町に行って住む場所や保育所を決めてしまうこと。なんなら、あっちのステーションの大井さんに相談してみたら。福祉課とも面識があるから、とんとんと話が進むんじゃないかしら」
香は、自分を雇ってくれることになったステーションの電話番号と、そこの事業主の大井女史の名が書かれたメモを大事に受け取った。
財布の中は乏しかったが、ここから町に行くくらいのバス代くらいは何とかなりそうだった。
こうして母子は逼迫した事情で町に移住することとなった。その後、十数年の間、雨が漏るような町営住宅ではあったが、屋根のある場所で生活することが叶ったのだった。
聞かされていた通り、町はひどく排他的で、最初、香はずいぶん嫌な思いをした。
スーパーのレジですら口をきいてもらえない日々が続いたが、明日食べるもののために、時給幾何かの安い給金を稼ぐことに専念した。
保育所では、さすがに赤ん坊の月子に辛く当たられることはなかったが、保育士や他の母親から、白い目で見られながら、香は娘の送り迎えをした。
しかしヘルパーという仕事は地元の老人の家に出入りすることから、様々な話を聴くこととなる。
ヘルパーをしていれば、この町の歴史や習わし、人々の性質など、すぐに理解できるようになった。
「薔薇荘のお屋敷の森には、絶対に入ってはいけません」
謎めいた森、人嫌いの一族の話は、町に来てすぐに、何処からでも聞かされた。禁断の森である。特に頑是ない子供は入ってはならない。昔から森に迷い込んで出られなくなった者が後を絶たない。もちろん警察の捜査の手は入るが、深い森の中で探し人はすぐには見つからない。
森には、害獣をとらえる罠があちこちにある。追いかけっこをして森に入り込んだ子供は、罠にとらえられ、誰にも発見されないまま、何十日もたってから変わり果てた姿で発見される。
あるいは、本当に神隠しにあったかのように、その姿すら消えてしまう。
森の持ち主である薔薇荘の人々ですら、迷い込んだ者を救うことはできぬ。
だから、森には入ってはならない。
絶対に、入ってはならないのだ。
「わかった、月子。森に入ってはいけないのよ」
子守歌代わりに聞かせる物語。とろとろと眠ろうとする子供の耳元で、香は囁いた。
町はずれの謎めいたお屋敷と、そこを護る不気味な森。人から話を聞くだけだったが、香は本能的に、その森を恐れた。絶対に月子をそこに寄せてはならないと思った。
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