第四部 謎解きの花嫁、冬薔薇を手にし

8/22
前へ
/79ページ
次へ
**  東屋の中に、人がいる。  どうやら田村氏が誰かと話をしている最中だったようだが、今この時刻にこんな場所で話など、密談であろう。話を漏れ聞いたと思われたら、どんなことになるか分からない。月子は激しくなる動悸を感じる。  「いないと思いますよ、こんな時刻に」  答える者がいる。年老いた男性の声だ。月子は必死に記憶の中を探り、この声の主が、使用人の中の一人であることを突き止める。  安藤みかの殺害現場である、あのカタコンベの中に集った人々の中に、白髪の目立つ使用人が一人いた。庭師の男であろう。  「そんなことより、早く休ませてください。さっきから足が痛くて仕方がありません」  庭師は言った。老いた体で、こんな時刻に起きているのは辛いのだろう。田村氏に呼ばれたので仕方なく話につきあっているのかもしれない。  「お金の工面のことでしたら、わたしどもに言われても。旦那様に直接お話していただくほかありませんよ」  庭師はうんざりしたように言う。  田村氏は負けずに、はあーっとため息をついた。まるで、相手の無能さを嘆くような、いらただしげなため息だ。  「だから、そこを、お前からも頼んでくれないかと。一番の古株のお前からの話なら無下にはできまいよ」  田村氏は早口で言い、それからまた、せわしなく呟く。  「いや、確かに誰かそこを通り過ぎたぞ。誰だあれは」  「こんな時間にですか。誰もいませんよ」  庭師はあくび交じりだ。だが、次の瞬間、あれっと声を高くする。ほら、いるだろう、と、田村氏がひそひそと言った。  「ばあさん、こんなところに何の用事だ。徘徊じゃないのかよ」  月子は息を飲む。僅かに首を伸ばし、茂みの隙間から周囲を見回すと、田村氏たちが気づいた人物の小さな姿を認めた。  冬薔薇まつが、白い寝間着一枚の姿で、ぼんやり宙を見上げ、ぎこちない歩き方でふらふら庭を徘徊しているのだった。手には白い薔薇の束を抱えているが、持ち方が頼りないため、ぼとぼと一輪ずつ草の上に落ちている。  がさ、がさ。まつがさまようたびに草は音を立てる。    「まつ様」  と、庭師は驚いたように叫ぶ。  「付き添いのメイドども、寝こけていると見える。これはいけません」  庭師は東屋から飛び出したようだ。まつ様、まつ様、儀式の間はこちらではありませんよう。庭師の叫び声は遠のく。まつの方に駆け寄っていったのだろう。    (儀式の間)  月子は息を殺しながら、人々の動きを見守った。  確か、冬薔薇まつは夜の零時に地下のカタコンベに行き、マリア像に供え物をする役割を担っていた。メイドたちが付き添って行うはずが、今夜はどうしたことか、一人で、しかも車椅子から離れ独歩で庭まで来てしまったらしい。  目的の場所とは全く違う庭の中に出てしまったことに気づかないまま、さまよっていたらしい。  庭師が「ささ、一度お部屋まで戻りましょう。カタコンベはこちらではありませんよ」と話しているのが聞こえた。気配が遠のいて行く。どうやら、屋敷の中に戻っていったらしい。  「はあー。使えねえ爺だ。くそ婆もこんなときに出てくるかよ」  田村氏が乱暴に吐き捨てた。ぺっと唾が飛ぶ音も聞こえる。  「嫌になるな。くそったれ」    そっと月子は首を伸ばした。田村氏のひょろっとした後ろ姿が、東屋を出てどんどん屋敷の方に遠ざかるのを見た。  やがて庭に静寂が訪れ、ようやく月子は再び動くことができた。  風が庭を渡る。森のざわめきが怪しく広がった。  ずいぶん時間をとってしまったが、「護る者」は薔薇園で待ち続けていてくれるだろうか。  月子は立ち上がると、足音を殺して走った。薔薇のアーチの中に飛び込むと、きらりと光が見える。前方の薔薇園の中だ。    月子はどきんとする。  ガラス張りの薔薇園の中に、人がいる。合図のように、懐中電灯を一瞬、光らせたのだ。  (待ってて)  月子はさらに足を早めたが、その時だった。  ひぃぃぃぃ!  笛が甲高く鳴るような、奇妙な叫びである。  その声は庭の静寂をつんざいた。  森の鳥の声だろうかと月子は思ったが、再びその声が響いた時、それが人間の女のものであることをはっきりと感じた。  ひぃーーーーーーーーーー!  庭の中の、どこかから聞こえてくる。  月子は立ち止まる。声はひどく大きい。  突如、暗がりの中に淡い光がさした。屋敷の中のあかりがつきはじめたのだ。  わらわらと人が出てくる気配がする。  その時だった。  がしっと腕を掴まれて、月子はもう少しで悲鳴を上げるところだった。  しかし、耳元でささやかれた声に、あまりにも聞き覚えがあったので、上げかけた悲鳴を飲み込んだ。  懐かしい、声。  その時月子は、自分がどれほどその声の主に会いたがっていたか、はじめて自覚をしたのだった。  「ここにいては駄目だ。こっちに」  力強く月子の手を引いて走り出すその人が、「護る者」なのだとしたら、月子はこの事態をどう解釈すればよいのだろう。  ローズメディカルの店長、原田がどうしてこんな場所にいるのか、月子には想像もつかなかった。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

40人が本棚に入れています
本棚に追加