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ふわんと漂う、店のにおい。
茶葉や、乾燥したハーブ、漢方の香り。原田にはその匂いが染みついている。
原田に導かれて薔薇園の中に入り、ガラス張りの暗闇の中にしゃがみこんで身を隠す。ガラスの向こうでは、すでに屋敷の人間がばらばらと飛び出してきていた。
「予想外のことが立て続けに起きている」
ぼそりと原田が呟いた。
月子は、目の前の原田の横顔を見つめ続ける。彫の深い顔立ち、ばっさりとした髪の毛。細身ではあるが活気のある体つき。
原田は薔薇園の中央にあるテーブルの下を探っている。やがて、ごとりと重たい音がした。テーブルがゆっくりと横にスライドし、丸い穴が現れる。
月子は息を飲んだ。
「下に逃げよう」
原田は言うと、手招きをした。月子が戸惑っていると、淡々とした声で再度「早く。見つかってしまうと面倒だから」と付け加える。
取り乱す様子はない。落ち着いて、どこかひょうひょうとして、月子が知っている「原田店長」そのものである。
たくさん聞きたいことはあったが、今はそれどころではなかった。
ガラスの向こうでは懐中電灯を持った人々が次第に集まりだしている。誰かが、警察に連絡しましょうかと怒鳴っている。
月子は原田に勧められるまま、穴の中を覗いた。暗闇が深く沈んでいるが、白い梯子が足元から伸びている。それで降りろというわけか。
恐ろしかったが、行くしかなかった。月子が梯子に縋って降りてゆく間、原田が上から電灯で照らしてくれた。
小さな電灯だが、少なくとも手元は見える。
梯子は固い岩肌に直接かかっていた。固く冷たい感触が指先に触れる。下に行くほど、穴の中は冷たかった。
(この、匂い)
次第に、あの青臭く甘ったるい匂いが漂ってくる。
月子は意識して呼吸を控えめにした。やがて月子の足が冷たい岩の上に降りると、原田が梯子をつたって降りてきた。ごとん、ずず、と上方で穴がふさがる。
薔薇園のテーブルが、穴をふさいだのだろう。
原田は懐中電灯で下を照らしながら降りてきた。すたんと降り立つと、月子の様子をさっと確認した。怪我がないか案じたらしい。
「分かっていると思うけれど、あまり吸わないほうがいい」
静かに、原田は言った。
「ハンカチ持ってる。口と鼻にあてておいたほうがいいね。俺は耐性がついているから、このくらいなら大丈夫だけど」
ポケットからハンカチを出して言われたようにした。
ついてきて、と言われ、素直に従う。穴の中は通路になっていた。原田の持つ懐中電灯だけが頼りである。原田は岩肌に手をあてて、探りながら進んでいるようだ。曲がりくねった通路はモグラのトンネルのようであり、ところどころ、小人が通るような小さな横穴が空いていた。
「いっぱい抜け道があるだろう。でも、もうこれらすべてを把握することはできないだろうね」
原田は歩きながら言った。
「まあ、いたずらに探らないほうが無難だ。おぞましいものを見つけてしまうかもしれない。例えば」
古い時代の、人骨とか。
原田がそう言ったような気がしたが、月子は聞き逃した。頭の中がまだ混乱している。いろいろと、聞きたいことが山積みになっていた。
「『護る者』は、原田さんだったの」
と、月子は前を行く原田の背中に向かって問いかける。
原田はそれには答えず、無言で歩き続けた。やがて足元がほんわりと少し明るくなり、原田はぱちんと懐中電灯を切った。
前方から、陰気なオレンジの光が淡く漏れている。
「あっちに行けば、マリア観音がある儀式の間に出るが」
原田は立ち止まった。
「さっき、おおばあ様が徘徊していたようだから、まだ白薔薇を供えている最中かもしれない。極力物音を立てないようにして、様子を見よう」
おおばあ様。
冬薔薇まつのことか。
月子は、じっと原田を見上げた。顎のライン、頬の輪郭。この人のことを、よく知っていると今まで思ってきたが、これほど近くでまじまじと、確認したことがあっただろうか。
月子の脳裏に、閃光のように昔の場面がひらめく。
深い緑の中の、暗い光。逆光になって、見えなかった顔立ち。
手を差し伸べてくれた、彼。
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「ここから出してあげる。けれど、もう二度と来てはいけないよ」
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原田はゆっくりと月子を見下ろした。
月子は目を見開いて、原田を凝視しつづけている。
原田は、軽くうなずいて見せた。月子がなにに気づいていようと、なにを思い出していようと、原田は原田だった。
「説明しなくてはならないが、時間がそれほどない。端的に言うと」
原田は、いつもの穏やかな調子のままで、その事実を告げた。
「俺の本名は、原田ではない。俺は、冬薔薇家の長男だが、相続権を弟に譲り、屋敷を出ている」
たけし。
月子は、まつの口走った名前を思い出す。
たかし、ではない。たけし、だ。
原田の名前は。
「でも、原田さんの名前は、ひろしさんですよね」
月子は震え声で言う。
「雄志さん」
口に出していってみて、はっとする。漢字の読みはひとつではない。雄志と書いて、たけしと読むこともできる。
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「いっそ、彼に決められてはいかがなのです」
大剛が言った、あの言葉。
その意味は。
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月子は無言で原田を見上げ続ける。
原田は健康で、理知的な目をし、落ち着いている。彼に、決められてはーー。
仮面の下は、誰も知らないのだから。
だから、彼に決められては。
「冬薔薇家の次期当主は、亨さんなんですよね」
月子は言った。
原田はじっと月子を見返すと、小さくうなずいた。それで、月子は原田の意思を知った。
原田は、冬薔薇家を相続するつもりはないのだ。
「亨さんには恋人がいます。わたしは花嫁になることはできないわ」
月子は続けた。
「ここから出るべきだと思っています」
原田はうなずいた。
「君がここから出るべきなのは確かだが、亨のことばかりではない。冬薔薇のことを、君はまだ知らないようだが」
甘い匂い。
嗅ぎ続けていたら、夢の中を漂うような心地になる、あれ。
月子は言った。
「だいたいの見当はついています。冬薔薇って、麻薬みたいなものなのでしょう。きっと。まつさんから変なものをもらったんです。あれが冬薔薇なんだと思うんです」
月子はポケットから薬包紙を取り出すと、原田に渡した。
原田は包みの中を確認すると、すぐに元通りに閉じた。
「これが、冬薔薇ですか」
月子の問いに、原田はゆっくりと、うなずいた。
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