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冬薔薇とは、文字通り冬に咲く薔薇のことだ。
薔薇は初夏から晩秋にかけて咲くものだが、なかには僅かに冬に花開くものもある。凍てつく森の中で、ぽつんと色づく鮮やかな花は、季節外れの異様さと気高さを兼ねる。
薔薇荘でささやかれる「冬薔薇」は、その冬薔薇のことではない。
「確かにそれは、冬に開花し結実する。薔薇に似た香りがするので、薔薇の中で育てることでカモフラージュしてきた」
声をひそめて原田は説明をする。
その時月子は、薄暗い光の中で、原田が濃い緑のジャケットを纏っていることに気づいた。
深い緑色。
闇に紛れる色。
そしてーー月子は、自分の側に、大きなヒントが存在していたことを思い知るーー原田が日常的に纏っていた色だ。
そうだ。
(原田さんは、緑色の人)
落ち着いたダークグリーンが、原田のイメージだった。思い出してみれば、原田はいつも、緑色を纏っていた気がする。
あの、穏やかな、ローズメディカルの奥の席で。
「いにしえの昔、バテレンの宣教師がこの地に来た時、その種を持ち込んだといわれている」
これは、神の恵み。
心を強くする助けとなるだろう。
キリスト教が、こんなものを認めているとは思い難い。
むしろ、それは悪魔の誘惑とでも言うべき代物である。
「俺が想像するに、きっと、その宣教師自身、国から遠く離れた日本に来るにあたり、様々な試練に負けていたのだろう。布教を続けるためには、どうしても支えが必要だったのに違いない」
語る原田の表情は淡々と穏やかだ。
月子は思う。
原田は、「冬薔薇」を常用する人々を、軽蔑もしていなければ、憎悪もしていない。
「同じ試練であっても、耐えきれる人と、耐えられない人がいて当然だと俺は思う。誰かが耐えているのに、他の誰かが耐えられないことを責める権利は、この世の誰にもないと思う」
さらりと、原田は言う。
そして、ちらりと月子の視線を跳ね返した。月子は、自分が「冬薔薇」を隠し持つ薔薇荘の人々を悪質に思っていることを、見抜かれたように思う。
「だが、俺はその伝統を守るのが嫌だった。だから、冬薔薇の名を捨てた」
原田はゆっくりと言った。
月子は原田の視線を受け止め続ける。鮮明に思い出す。
あの、幼い日の、深い緑の逆光の中の、輪郭を。
月子はしばらく無言だった。
原田は自分の素性を明かしたのだ。原田は薔薇荘を知り尽くしている。カタコンベ洞窟の抜け道も知っている。彼なら自在に森から薔薇荘の中に入り込むことができるだろう。
「もっと早く、君をここから救い出すべきだった」
原田は言った。
月子は原田から視線をそらした。胸をときめかす場面ではない。だけど、月子はもう、自分の心の中に、形を持ち始めている思いから目を背けることができなかった。
「引き止めてくれなかったじゃないですか」
ぼそりと月子は言った。
薔薇荘から花嫁として指名された時。
結婚することになった、と告げた時、原田はごく淡々としていたではないか。
いくらでもチャンスはあったーーと、月子は思う。
あの屋敷には行くな、と告げてくれるか。
それとも。
「あの晩、安藤さんはわたしを落とし穴に落としました。助けてくれたのは原田さんだったのですよね」
月子はうつむいたまま続ける。
「お給料と一緒に、うちまで届けてくださった。その時、わたしを」
ふうっと、原田が息を吐いた。
まるで煙草を吐き出すような息だった。
月子はそっと顔を上げた。原田の視線が、鋭く射ている。どくん、と、重たく胸が鳴った。
「月ちゃんを、攫ってしまえば良かったと」
しかし、原田の声は相変わらずひっそりと静かだった。目は荒れた波のような光を放ちながら、穏やかな声音を保っている。
「そんなふうに、言うわけ」
月子は答えることができなかった。
穏やかな原田。淡々とした原田。目の前の男は、月子がよく知る、バイト先の店長のはずだ。
戸惑う月子に原田の手が伸びる。頬に原田の指先が触れた時だった。
「アアアアアーーーーー」
鳥の鳴き声のようだと、月子は思った。
ほの暗いオレンジの光が差す、儀式の間から、その悲鳴は聞こえた。
アアアア、アアアア、アアアアアーーーーー。
「隠れて」
原田が低く言い、月子の体を岩肌に押し付ける。
月子は、見た。
洞窟の向こう側、マリア観音のある儀式の間の方で、黒い人影が走り抜けた。
小柄な。
「君は、いったん部屋に戻るべきだ」
早口で原田は言った。
「それには、いったん、儀式の間に出なくてはならない。なにがあったのか分からないが、見てくるからここから動かないで」
原田は足音を殺して走り、儀式の間を覗いたようだ。しばらくして、原田は戻ってきた。表情は淡々と穏やかだが、顔色は青ざめている。
「二人、殺されている」
原田の言葉に、月子は息を飲む。
「おおばあ様と、メイドの田中さんだがーーとりあえず、君を屋敷の中まで送り届けなくては。俺はどうにでも逃げることができるから」
冬薔薇まつと、おつきのメイドが死んでいるというのか。
絶句した月子の手を取り、原田は走り出していた。
「人が来ないうちに、早く行こう。このままでは、月ちゃんが疑われてしまうから」
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