第四部 謎解きの花嫁、冬薔薇を手にし

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**  原田は一瞬足を止め、岩肌に体をつけて、儀式の間の様子を伺った。それから月子を振り向くと、頷いて見せた。  「今ならここを抜けられそうだ。早く」  原田に手を引かれるまま、ほの暗い蝋燭の光が灯る儀式の間を横切る。一歩入った瞬間、月子は悲鳴をかみ殺した。  白いマリア観音の前で、車椅子に座った冬薔薇まつがぐったりとうなだれていた。その背中は真っ赤に染まっている。背後から刺されたのだーーと、一瞬で月子は理解する。  まつの足元には真っ赤な血が水たまりを作っていた。さらに数歩進んだ時、車椅子の影で、メイド服の女性が一人、倒れているのが見えた。まつのお付きの女性の一人だ。うつぶせになり、顔だけ横を向いて、目を見開いたままこと切れている。首筋を切られたのだろう、大きな血の沼の中に埋もれるようにして亡くなっている。  ぽたん。ぽたん。  天井から水が落ちてくる。  一滴が月子の純白の服の裾にこぼれた。限りなく濃厚な赤色の筋が流れる。  切られた首筋から、大量に血が噴出したのだろう。天井に飛び散った血が、しずくになって落ちてきているのだった。  悲鳴をあげかけた月子の口を、素早く原田の手がふさぐ。そのまま原田は月子を横抱きにし、儀式の間を駆け抜けた。月子は原田の緑のジャケットを噛み締めて、悲鳴を押し殺した。がくがくと全身が震え、頭の中がぐるぐると混乱するようだった。  (どうして)  原田がどこをどうやって走り抜けたのか、月子は見ることができなかった。  長い時間のように思われたが、おそらく五分もたってはいなかったろう。ごうん、と重たい音がして、月子ははっと原田の胸から顔を上げる。すぐ上に原田のあごがあった。月子は慌てて視線をそらした。  そこは、ごく小さなエレベーターのようである。ベージュ色の落ち着いた壁紙が四方にはられ、白い蛍光灯が光っていた。  「おおばあ様の庭に繋がっているんだ。多分今は、あそこには誰もいない」  原田がささやいた。  ごとんーーすぐに、エレベーターは止まった。歩ける、と聞いてから原田は月子を下ろした。エレベーターから降りると、目の前にはゆるいスロープがあり、足元に照明がついている。スロープは外につながっており、そっと歩いてそこから出てみると、見覚えのある庭園が広がっていた。  冬薔薇まつの住居から見えた、日本庭園である。  灯篭の前がぽっかりと開いていた。  「ぐずぐずできない」  原田は穴から脱出すると、開いている穴をそのままに、月子の手を引いた。庭園をぐるりと回り、小さな裏木戸を開いた。すると、そこには冬薔薇家の見事な洋風の庭園が広がっていた。  今、庭には使用人たちが大勢出てきてあちこちで騒いでいる。懐中電灯の光が交錯していた。  原田は月子の手を引き、建物の軒下を駆けた。皆、屋敷から離れた場所で騒いでいるのでこちらには気づいていないようだ。  やがて二人は屋敷の玄関前まで来た。階段の影にしゃがみこんで、原田は月子に言った。  「ここから入るといい。人に見られたら、騒ぎが起きたから気になって見に来たというんだ」  すぐに場を離れようとする原田である。月子はとっさに、緑のジャケットを掴んだ。    「待ってください」    原田は振り向いた。  月子は、引き止めたものの、次になにを問うか逡巡した。聞きたいことは山ほどあった。  原田は少し微笑むと、丁寧に月子の指を服から離した。  「大丈夫」  と、原田は言った。  「必ずまた来る」  月子がまだ何か言おうとするのを、原田は微笑みで封じた。  「スマホは充電しておけよ」  と言うと、原田はさっと中腰になり、足音を殺して走り出していた。  (原田さん)  月子はしばらく、ぼんやりとした。  しかし、ぐるりと懐中電灯の光がそこらをめぐり、月子の足元に差し込んだ時、はっと我に返った。  月子は静かに立ち上がると服のほこりを払った。その時、あのまがまがしい赤い色が目に入り、思わずぞっとした。  なるべく何でもない様子を装いながら階段をあがり、玄関を開いて中に入る。ホールには誰もいなかった。らせん階段を上り、二階の踊り場に着いた時、とんとんと降りてきた人と正面からぶつかりかけた。  「わっ」    大宮孝がすっとんきょうな声をたてて、手すりにしがみついている。  顔をしかめて月子をにらみ「びっくりしたじゃないか」と苦情を言った。月子は息を飲んだ。  「すいません、わたし、物音がして、なんだか気になってーー」  月子が言い訳をし始めたが、大宮はぜいぜいと息を切らして、それには答えなかった。  「なんだい、この騒ぎは」  と、大宮は言った。  「亨君は部屋にこもったまま返事もしないし、変な夜だよ。ねえ君、亨君を知らないか」  月子はふるふると首を振った。  大宮はちらっと月子の全身を眺めた。一瞬、大宮の目が、月子の服の裾にとまったような気がして、月子は慌てて体を翻した。  「あの、わたし、部屋に戻りますから」  月子は言うと、慌てて階段を上った。  とにかく今は、白の部屋に戻り、赤い跡のついた服を着替えてしまいたかった。  幸い、それきり月子は誰にも出会わずに部屋に戻ることが叶った。部屋に飛び込み、大急ぎで脱衣所に飛び込むと服を脱いだ。その時、ポケットからスマホが零れた。月子は荒々しくスマホを拾うと、洗面台の上に置いた。  スマホを机の引き出しに隠す余裕はなかった。月子は裸になると、そのまま服を風呂に持ち込み、湯船に投げ込んで、じゃあじゃあと蛇口をひねった。  水につけて、汚れを取ろうと思ったのである。  ついでに月子は自分もシャワーを浴びた。  ざあざあと頭から熱いお湯をかぶっている間に、ぐるぐると回っていた頭が落ち着いてくる。  (ああ、服を水に全部つけるのではなく、汚れたところだけ、もみ洗いしておけばよかった)  気づいた時は遅かった。  白いスカートはお湯の中に沈んでいる。月子は慌ててスカートを拾い上げ、赤いシミがどうなったのか調べた。  シミは薄れている。  ほうっと力が抜けた。  ざあざあシャワーがほとばしる。  月子はタイルに座り込んだまま、しばらく動けなかった。  その時、「若奥様あ、お戻りですか」と、すみの呼び声が聞こえた。  月子は大きく息を吸い込むと、一声「ここです」と、叫んだのだった。
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