第一部 花嫁、純潔のまま屋敷に捧げられ

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**  月子が薔薇荘の花嫁になることを決心したのは、家計の苦しさを知るからだ。  入れば二度と出ることは許されない。籠の鳥となる前提で嫁ぐ、町はずれの屋敷。  もちろん最初、月子は驚き、なぜ白羽の矢が自分の当たったのか、知りもしない相手の妻となるのがおぞましいとか、様々なことを思った。大剛が訪問した日の晩、月子は一睡もできなかった。階下では香が派手に酔って物音を立てており、それもまた、聞くに堪えないものだった。    (ママは、いつからあんなふうになってしまったのだろう)  仕事で何かあった日とか。  月子の進路で悩ましい日とか。  香が変に陽気で、いつもとは別人になったかのように軽やかな動きになり、おかしなことを口走るーーアラ月子、あなたはを祝福する薔薇の天使がいるわ、ねえ見えないの、月子ーー年々、香の奇行は激しくなるばかりだった。  決まって、その翌日、香はいつものように落ち着いて、陰気なほど穏やかな様子で、「昨日は酔ってしまって。ごめんなさいね」と詫びるのであるが、月子としては、母がその弱い心身のキャパを超えるほど無理をしているように見えてならず、痛々しくてならないのだった。  つつましく暮らしているはずなのに、香は常にお金に苦しんでいる。そのことを、月子はひそかに知っていた。  決してお金のことを口にしない香だが、月子が台所から出た時、必死の形相で財布の中身を取り出し、テーブルに並べて数えていたり、通帳の残高を見て頭を抱えたりしている。  何度か、町役場から町営住宅の家賃の督促が来ているのも見て知っていた。  ヘルパーでは、満足な収入が稼げないのか。  それでも香は、倒れるのではないかと思うほど休まず必死に働いているように見える。深夜にも仕事に出ることがあるし、他のヘルパーが嫌がるような独居老人の家にも進んで出向いているらしかった。    (ママは、わたしの知らない借金を抱えている)  なんのお金かは、月子には分からない。  だが、生活を蝕むほど、その借金は重たいのだ。こつこつと返しているはずなのに、ちっとも生活が楽にならないのは、もしかしたら悪徳な金融業者が絡んでいるからかもしれなかった。    「わたしは知っているの。うちにはお金がないことを」  真っ赤に目を泣きはらした香に、月子は告げる。  自分は薔薇荘に嫁ぐつもりであること。  子が嫁入りを承諾した場合、その見返りとして、薔薇荘から多額の金が降りる。  大剛は、そんなえげつないことまで、はっきりと伝えていった。それはつまり、薔薇荘の花嫁となることが、本人やその家族にとって、決して喜ばしいことではないのを、薔薇荘側も分かっていることを示していた。  わたしが嫁いだら、たくさんのお金が入る。そのお金があれば、ママはもう、苦しむことはないでしょう。  「お屋敷から出られないといったって、手紙のやり取りや電話くらいできるでしょう。それに、年に何度かは、お屋敷にママを呼ぶことくらいできると思う」  気丈に微笑みながら、月子は言うのだった。  「どうせ、わたしには将来なりたいものとか、離れたくない友達や恋人などいないのだもの。この町に居続けて、今後、そんな存在が出てくるとも思えない。それなら、ね」  香は月子の両手を握りしめた。ぼたぼたと大粒の涙がこぼれ、唇がぶるぶると震えた。  香はその時、なにかを言おうとした。口が開き、言葉が漏れかけた。ママはなにか語ろうとしている、今まで自分に言わなかった何かをーー一瞬、月子は緊張したが、香はそこで我に返り、開きかけた唇を閉じてしまった。  かわりに香が語ったのは、まるで別のことだった。  「いいえ月子、あなたは行くべきではない。今から汽車に乗り、町の外に逃げなさい。ありったけのお金を渡すから、それで何とか住むところを探して」  震える手で、香は財布を引っ張り出した。ぺらぺらの安物の財布は、ほんのわずかの千円札と硬貨しか入っていない。  月子はそれを受け取らなかった。香は泣き崩れた。
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