40人が本棚に入れています
本棚に追加
**
誰かが泣いている。
すすり泣きだけど、時折嗚咽が混じる。哀切な泣き声は、冷たい雨に似ていた。
「花嫁が憎い」
と、声は言っている。すすり泣きの合間に、呪詛のようにぼそぼそ呟いている。
憎い。憎い。花嫁が憎い。
「どうして、薔薇荘に来てしまったの」
いつか、呪詛の声は、そんな問いかけに変わる。
なぜ。あなたにとっても、見知らぬ相手のはずなのに。町の娘なら皆、畏怖の対象でしかない薔薇荘からの婚姻の申し込みだ。それを受け入れたのは、どうせお金のためなのだろう。
貧しいお前が、町の富豪の花嫁となる。
ただそれだけのシンデレラストーリーに目がくらみ、のこのこ薔薇荘に来てしまったのではないのか。
「愚かしい」
そして声は、再び呪詛を呟き始める。
「憎い。花嫁が憎い。だからお前は」
後悔するべきなのだ。
**
泥沼のような悪夢の中で、月子はもがいた。
あの、甘ったるい青臭い匂いーー冬薔薇の香りだーーに全身が包まれている。飲んだお茶に冬薔薇が入っていたのに違いない。
(すみさん、どうして)
いや、すみを疑ってはいけない。
ティーポットに禁断の麻薬を入れるくらい、他の人間にもできるだろう。誰もいない部屋に忍び込み、ポットにそれを忍ばせる。
月子は必死で眠りから覚めようともがく。やっとのことで意識が浮上し、まぶたを細く開いた時、すうっと赤い光が一筋差し込んだ。
窓から差し込む赤。西日だろうか。まぶしさのあまり、月子は目をすぼめる。
その時だった。
がしっと月子は両手首をつかまれた。ベッドの上に体を押し付けられる。何者かの体温が体の上にのしかかり、その体重のために、月子は身動きが取れなくなった。
「やめてーーやめてください」
月子は叫ぶが、冬薔薇に毒されているため、思うように声が出ない。
せめて相手の顔を見なくてはならない。月子は頸を振って抵抗をしながら、相手の顔を確かめる。
緑の仮面が見えた。
(亨さん)
月子は驚愕した。
仮面の奥の目は冷酷に輝いている。嗚呼、これは本当に亨の目なのだろうか。こんな恐ろしい、冷たい目を、亨はするのだろうか。
月子は目を見開いた。だが、ほとばしる叫び声は、ふいうちの接吻で飲み込まれた。
月子は唇をふさがれ、なにかを舌の上に流し込まれた。飲み込んではならない。分かっていたのだが、嚥下反射が働いたーーごくん。
強烈な眠気が月子を襲う。
抵抗などものともしない、残酷で強力な麻薬が月子を侵略した。そのまま月子の意識は奈落に落ちる。凌辱されまいと抵抗する体からは力が抜ける。
それから後の記憶は、月子の中にはなかった。
最初のコメントを投稿しよう!